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イェシュアの変貌とその意義 (2)

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75. イェシュアの変貌とその意義 (2)

【聖書箇所】マタイの福音書17章9~13節

ベレーシート

●ピリポ・カイサリヤでのペテロの「信仰告白」(16:16)に続くイェシュアの「受難と復活の予告」、そして高い山での「変貌の出来事」(17:1~8)、そして、山を下る際に弟子たちが尋ねたエリヤの再来についての質問(17:9~13)、これら一連の出来事は一つにつながっています。それゆえ、前回に続いて「イェシュアの変貌とその意義(2)」というタイトルとしたいと思います。

出エジプトの型.PNG

●イェシュアが高い山に登られると、弟子たちの前でその姿が変わり、そこにモーセとエリヤが現れて、イェシュアと語り合っていたことが記されています。その話の内容はマタイには記されていませんが、ルカによれば、イェシュアが「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)であったことが分かります。「エルサレムで遂げようとしておられる最期」とは二つの面が考えられます。「最期」とは「新たな出発」を意味する「エクソドス」(ἔξοδος)です。その一つは、イェシュアがエルサレムで十字架によって贖罪の死を遂げ、そして三日目に復活することです。それは人々が律法の呪いから解放されるために必要なことでした。もう一つは、イェシュアが再臨して獣と呼ばれる反キリストを打ち破り、エルサレムを中心としたメシアの王国(千年王国)をこの地に打ち立てるということです。それは最後の敵であるサタンの支配から解放されるために必要なことなのです。このように、神のご計画におけるイェシュアの来臨は二つの面、すなわち、初臨と再臨を含んでいるということです。右図にある第一の出エジプトと第二の出エジプトは、第三、第四の型となっています。

●幸いなことに、今日の私たちはこうした神のご計画を知らされていますが、二千年前のイェシュアの時代の人々には理解できないことだったのです。しかし、イェシュアの復活後、弟子たちはこのことに目が開かれ、彼らのその証言を新約聖書の中に読むことができます。イェシュアによって弟子たちが少しずつ教えられたように、私たちも少しずつ教え導かれる者となりたいものです。イェシュアは私たちの偉大な教師なのです。まずは今日のテキストを読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書17章9~13節
9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」
10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」
11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。
12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」
13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。


1. メシアの秘密

●旧約において、メシアの来臨には初臨と再臨があることが預言されていたのですが、それに気づいた人はいませんでした。多くのユダヤ人たちはメシアの来臨を一回限りのこととして理解していました。神のご計画において、メシアの来臨が二度あること(初臨再臨)、また、メシアの再臨も二度あること(教会に対する空中再臨とイスラエルのための地上再臨)を知って聖書を読まなければ、おそらく弟子たちがそうであったように、混乱することは間違いありません。そのような全体像を教えられていない弟子たちが、自分たちの見たすばらしい出来事や幻を語ったとしても、その真意は理解できていないのですから、聞く者にも混乱を与えることになってしまいます。それを避けるために、イェシュアは自分が復活するまで(つまり、イェシュアがメシアとして多くの苦しみを受けて死なれることも含めて)、変貌の出来事を「だれにも話さないように」と口封じをされたのです。それは「メシアの秘密」と言われます。

●「メシアの秘密」はイェシュアが復活されるまでです。正確に言うならば、イェシュアの十字架の死と復活から40日目の昇天の出来事、それから10日目、すなわち50日目に助け主真理の御霊聖霊が遣わされる時までです。その日は五旬節(ペンテコステ)と言われ、この日に遣わされる御霊こそ、イェシュアがメシアであることを私たちに証ししてくださるのです。イェシュアは十字架にかかる前の最後の晩餐で繰り返して語っておられます。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章26節
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

【新改訳2017】ヨハネの福音書16章13節
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

●イェシュアの昇天から再臨までの期間は「聖霊の時代」とも言われます。ちなみに、「御霊」は「聖霊」と同義です。新約聖書での「御霊」(「プニューマ」πνεῦμα)と「聖霊」(「プニューマ・ハギオン」πνεῦμα ἅγιον)の使用頻度は、約5対3の割合です。

2. エリヤの再来の預言

●イェシュアの栄光の姿を見た三人の弟子たちは、イェシュアから変貌の出来事を「だれにも話さないように」と命じられたことで疑問に思ったのです。「すると、弟子たちはイエスに尋ねた。『そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。』」と。実は、今回の聖書箇所であるマタイの福音書17章9~13節のやり取りは非常に難解な箇所です。その背景として、ユダヤ人たちは、メシアが来る前に、その前触れとして、先駆者としてエリヤが再来すると信じていたからです。弟子たちは、変貌の時に現れたエリヤのことが気になって混乱していたからです。

(1) マラキ書3章1節の預言における「わたしの使い」

●かつてイェシュアは、マラキ書3章1節の預言の成就として、バプテスマのヨハネについて語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書11章10~14節
10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
12 ・・・・(省略)
13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。

●ここでイェシュアは、バプテスマのヨハネのことを「この人こそ来たるべきエリヤなのです」と語っています。ところがバプテスマのヨハネ自身は、パリサイ人から遣わされた者たちから「あなたはどなたですか」と尋ねられたとき、彼はためらうことなく、「私はキリストではありません」と明言し、「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」との問いかけに対しても、「違います」と答えています。そして彼は自分のことを「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」と答えています。エリヤではないけれども、メシアの先駆者である「荒野で叫ぶ者の声」と自己紹介しています。ところが、弟子たちはイェシュアに「まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っている」、いったいこれはどういうことなのかと質問しているのです。なぜ彼らがこのような質問をしたのかと言えば、先ほど述べたように、メシアの来臨には二度あることを知らないからです。「まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っている」のは、マラキ書4章5~6節の預言でそう信じていたからです。

(2) マラキ書4章5~6節に預言されているエリヤ

【新改訳2017】マラキ書4章5~6節
5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。

●5節に「わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあります。「【主】の大いなる恐るべき日が来る前に」とは、イェシュアの初臨ではなく、イェシュアの再臨の前の大患難期の恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがた(=ユダヤ人)に遣わすという預言です。律法学者たちはこの預言を信じていたのです。ですから、今でもユダヤ人たちは、エリヤが来ていないのだから、メシアもまだ来ていないと信じているのです。しかし、イェシュアはバプテスマのヨハネをエリヤだとしています。にもかかわらず、ユダヤ人たちは彼を受け入れようとはしなかったと語っています。この場合、イェシュアはバプテスマのヨハネを、エリヤそのものではなく、エリヤのような働きをする者として、エリヤの霊を持つ人として語っているのです。ルカはバプテスマのヨハネについて、主の使いのことばを、次のように記しています。

「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」(ルカ1:16~17)

これはイェシュアの初臨のときの話です。

●そのように考えるなら、マラキが預言しているように、【主】の大いなる恐るべき日が来る再臨の前にも、エリヤのような霊と力をもって働きをする者がいるということです。つまり、主の再臨前にも「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」務めをするような人物が現れるということです。とすれば、それは黙示録11章に登場する「二人の証人」しかいません。聖書はこの「二人の証人」(11:3)のことを、「二人の預言者」とも言っています(11:10)。

(3) 御使いガブリエルがダニエルに伝えた「七十週の預言」における「二人の証人」

●御使いガブリエルが伝えた「七十週の預言」があります(ダニエル書9章)。それによれば、七十週目に七年間の反キリストによる支配が到来することを預言しています。その七年は前半の三年半と後半の三年半に分けられます。前半の三年半を患難時代と言い、後半の三年半を未曽有の大患難時代と言います。その支配を終わらせるためにイェシュアがメシアとして地上再臨されるのですが、前半の三年半の間に、「二人の証人」が神から力ある権威を与えられて預言的な働きをします。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章3~13節
3 わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間(三年半)、預言する。」
4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。
6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。
7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。
13 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。

●以上が「二人の証人」の働きです。エリヤと異なる点もありますが、エリヤの霊と力を以下に見ることができます。

【新改訳2017】ヤコブ書 5章17 節
エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。

●このヤコブ書と黙示録11章6節の「この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている」の部分。さらに「彼らは雲に包まれて天に上った」(12節)もエリヤと似ています。

(4) 「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」

●マタイの17章11節に「エリヤが来て、すべてを立て直します」とあります。「立て直す」とは、マラキ書4章6節にある「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」に該当すると考えることができます。「向けさせる」(「アポクリノマイ」ἀποκρίνομαι)というギリシア語の時制が未来形になっていることから、それはやがて起こることを意味しています。ヘブル語訳は「シューヴ」(שׁוּב)の未完了ヒフィル態が使われています。「二人の証人」とは「わたしの二人の証人」とあるように、イェシュアがメシアであることの証人なのです。

●ところで、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」とはどういうことを意味するのでしょうか。ユダヤ人にとって家族とは、私たちが考える以上に、その絆は強いと言われます。もしその絆に亀裂が入る要因があるとすれば、それはその家族の中にイェシュアをメシアだと信じる者が起こされた時です。もしそのようなことが起こったなら、その者のための葬式がなされるそうです。イェシュアをメシアだと信じることによって、それほどの家族崩壊が起こるのです。そうした彼らのところに「エリヤが来て、すべてを立て直す」、つまり「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」ことが起こるとは、家族の中にイェシュアを信じるという奇蹟が起こされことに他なりません。たとえ、そのことによって殉教に至る場合があっても、必ずそうなるということです。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)。まさにそのようなことをするのが「二人の証人」と言われる存在なのです。

(5) 「二人の証人」とはだれのことか

●この「二人の証人」「二人の預言者」がだれであるのか、聖書はそのことを明記していませんが、「変貌」の時にイェシュアと話し合っていた「モーセとエリヤ」だと考えることができます。断定はできませんが、おそらく、このモーセとエリヤがイェシュアの証しをしたと思われます。モーセとエリヤはいずれも預言者であり、彼らが再臨の前に現れて、エリヤのような力をもって御国の福音を語り、リバイバル的な宣教の働きをなすと考えられます。御国の福音の宣教の働きを全世界になすために、「二人の証人」のみならず、同じ期間に起こされる、額に印を押された神のしもべであるイスラエルの14万4千人の人々(黙示7:3~4、14:1,3)がいます。これらの人々がパウロ並みの力をもって殉教覚悟で宣教するのです。

【新改訳2017】マタイの福音書24章14節
御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

●ちなみに、反キリストが支配するこの期間(七年間の前半の三年半)の前に、すでに教会は携挙されています。

3. 「エリヤが来て、すべてを立て直します」

●弟子たちの「まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っている」(マタイ17:10)という疑問に対して、イェシュアは11節で「エリヤが来て、すべてを立て直します。」と言っています。ここでの「エリヤが来て」の「来て」は現在形です。そして「立て直します」は未来形です。ところが12節では「エリヤはすでに来たのです。」と答えています。ここでの「来た」はアオリスト(過去形)です。「ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました(過去形)。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります(現在形)。」と答えられました。イェシュアは自分とヨハネの運命を同一のものとして語ることによって、「人の子も、人々から苦しみを受けることになります」という点を弟子たちに理解させるように仕向けたと言えます。このことによって、弟子たちが「エリヤ」のことを「バプテスマのヨハネのこと」だと「気づいた」のです。否、むしろイェシュアが気づかせたと言えます。

●しかしながら、イェシュアが言われた11節のことばはきわめて微妙なのです。なぜなら、ギリシア語原文の時制は「エリヤはすでに来ており(現在形)、すべてを立て直します(未来形)」となっているからです。とすれば、この時制を成り立たせる真のエリヤはイェシュア自身だと言えるのです。このように、今回の「エリヤの再来」の話は重複的な解釈が可能なのです。今回のイェシュアと弟子たちとのやり取りが難解だというのはこうした理由によるものです。しかしそれは同時に、私たちに神のご計画の機微を学ばせる箇所でもあるということなのではないでしょうか。

2020.4.12

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