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イェシュアのトーラー・ミドゥラーシュ(1)

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20. トーラー・ミドゥラーシュ(1)

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  • 律法(「トーラー」=神のみおしえ)は、決して破棄されるものではなく、永遠の御国(メシア王国)の大憲章となるものです。山上の説教が福音であるのは、神の御子イェシュアが私たちを御国の大憲章によって生き得るようにしてくださるからです。メシア王国はエレミヤが預言した「新しい契約」によって成り立つ王国です。そのためには、私たちのからだが変えられる必要があります。なぜなら、血肉のからだは神の国を相続することができないからです(Ⅰコリント15:50)。これは奥義です。キリストの復活という事実がなければあり得ない話だからです。その意味において、メシアの再臨は私たちの唯一の希望なのです。
  • イェシュアは、御国の大憲章である神のトーラーの真意を六項目に限って語られます。律法はすでに神の口から語られていましたが、その真意が律法学者たちの解釈によって限定され、歪められてしまっていたために、御国の王となるイェシュアが、その真意を再度人々に知らせる必要があったのです。当時の人々がそのことをどれだけ理解していたのかは分かりません。イェシュアが語った律法は、イェシュアの復活による新しいからだが、信じる私たちにも与えられなければ、決して実現されることがないからです。その意味において、イェシュアの語る説教はすべて、神のご計画が完全に実現され、新しい契約によって御国の民として生かされる者たちの存在が大前提とされて語られているのです。単に、律法学者やパリサイ人の教えに対してやり込めるためのものではありません。確かに、律法のより深い次元における真意を教え諭すことによって、それを聞く者に対して罪の自覚を与えることは言うまでもありませんが、それで終わりとせず、聞く者に将来と希望を予感させるものだと理解すべきなのです。
  • 「律法」は「神の家」において不可欠なものです。律法の真意を教えるイェシュアの切り口は、まず最初に口伝伝承による律法の解釈が語られ、それからイェシュアによる律法の解釈が語られます。イェシュアが語られた律法の解釈は、口伝伝承の解釈に対する対立命題として語られているとも言われます。それは補足説明の類いではなく、むしろそれまでの律法の解釈を否定する形で語られたからです。その言い回しが「対立命題」と呼ばれるものです。そして、それが律法学者やパリサイ人たちにつまずきをもたらす結果となったのです。
  • イェシュアは以下にあるように、六つの戒めのタブレットにおいてご自身の解釈を語っています。そのうち最初の三つはモーセの十戒から、後の三つはレビ記や出エジプト記から取り上げられています。ここでは、最初のタブレットである「殺してはならない」(出20:13)という神の戒めを取り上げ、その真意を学びたいと思います。

画像の説明

1.「殺してはならない」の真意(21~22節)

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章21~22節
21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。


●「人を殺してはならない。」と訳されたギリシア語は「ウー・フォネウセイス」(Οὐ φονεύσεις)で、否定辞と未来形2人称単数です。これはヘブル語の「否定辞+未完了2人称単数」()の文法情報をそのまま用いています。直訳するなら「あなたは殺すことはないであろう」となります。事実、岩波訳ではそのように訳されています。


  • 「人を殺してはならない」と言うと、自分とは関係ないように思う人もいるかもしれません。なぜなら自分が人を殺すことはあり得ないと思っているからです。しかし私たちのほとんどは人を殺しているのです。神の目から見るならば、確実に殺人の罪を犯しているのです。
  • ここで使われている「殺す」ということばは、ギリシア語では「フォネウオー」(φονεύω)ですが、ヘブル語にすると「ラーツァハ」(רָצַח)です。ヘブル語の「ラーツァハ」(רָצַח)は、神が主語で用いられている例はありません。これは「前もって計画された殺人」を意味します。いずれもモーセの十戒の第六戒で使われている語彙です(出20:13、申命記5:17)。文法的には「否定辞+未完了形」、ギリシア語でも「否定辞+未来形」です。この文法情報は、御国の視点から見るならば「殺すのはあり得ない」「殺すはずがない」というニュアンスです。しかしこの世的には「殺してはならない」という禁止の意味として訳されています。
  • この「殺してはならない」という戒めに対する伝承的解釈は、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」という、「殺人」の意味に限定した解釈です。それに対し、イェシュアの解釈は「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」というものでした。
  • 十戒の「殺してはならない」を、伝承的解釈では「人を殺してはならない」という意味に限定し、その真意を弱め、変えてしまったのです。それに対するイェシュアの解釈は「兄弟に対して腹を立てること」であり、「怒りを心の中に抱くことはすでに殺人の罪に等しいこと」を意味しています、心の中の敵意、憎しみ、苦々しい思いを兄弟に対して持つ者は、神の目から見るならば「殺す」に等しいという解釈です。Ⅰヨハネにも「兄弟を憎む者はみな人殺しです」(3:15)と語られている通りです。
  • 兄弟に対して「腹を立てる」と訳されたことば(「オルギゾーー」οριζω)は「根に持つ怒り、忘れようとしない怒り、和解しようとしない怒り、復讐しようとする怒り」を意味していますが、ヘブル語の「カーツァフ」(קָצַף)には義憤も含まれているようです。例えば、イスラエルの民がモーセの命令に従わずに「マナ」を規定以上に集めて腐らせてしまった者に対して、モーセは怒っています(出16:20)。つまり、いかなる怒りもだめだということではありません。正しい怒りもあるのです。
  • 「殺す」という意味のヘブル語には「ラーツァハ」(רָצַח)の他に、「ハーラグ」(הָרַג)があります。この語彙の初出箇所はカインが弟のアベルを殺した場面で使われています。使用頻度としては「ハーラグ」が167回と高いです。ちなみに、「ラーツァハ」(רָצַח)の使用頻度数は47回ですが、イェシュアは「ラーツァハ」の概念の中に「ハーラグ」の意味を含めておられるようです。
  • ですから、兄弟のことを『能なし』(あほう、まぬけ)という者、また『ばか者』(ばか野郎、愚か者)と言って罵倒するならば、神のさばきを免れることができないと教えています。ちなみに『能なし』はアラム語の「ラカ」だと新改訳聖書の脚注にありますが、ヘブル語の「からっぽ」を意味する語彙である「リーク」(רִיק)がそれに近いようです。ヘブル語聖書では「レーカー」(רֵיקָא)としています。また「ばか者」はヘブル語聖書では「ナーヴァール」(נָבָל)が当てられていますが、ギリシア語が「モーレー」(Μωρέ)という語彙であることから、これはヘブル語の「逆らう」を意味する「モーレー」(「マーラー」מָרָהの分詞「モーレー」מוֹרֶה)の音訳ではないかという解釈もあります。とすれば、マタイの福音書のギリシア語はヘブル語からの翻訳だということになります。いずれにしても、神に造られた者に対して人格的な侮辱や軽蔑的なことばを放つ者は最高議会に引き渡されるとしています。
  • また、人を「ばか者」と言うことは人の人格を傷つけるだけでなく、神の創造に対する不敬とも言え、最も厳しいさばきである「燃えるゲヘナに投げ込まれる」としています。たとえ怒りによってもたらされたとしても人を傷つける言葉を発する者に対して、神の厳しいさばきが余儀なくされるということです。ここに「律法学者たちやパリサイ人にまさる義」があります。このような基準で神の前でさばかれるとしたなら、だれも天の御国に入る者はいなくなるはずです。ここに「キリストの義」をいただく必要性があるのです。
  • このことを御国の視点から見るならば、御国はそのような者がだれひとりとしていない世界であることが示唆されていると言えます。
  • 昨今のニュースでも知られるように、「言葉によるいじめ」によって自殺にまで追いやられる現実があります。おそらくこれはこの世においては決してなくならない罪の現実と言えます。たとえ、殺人を意図したものではなかったとしても、心無い一言が人を死に追いやる力をもっているのです。怒りや憎しみや復讐心に支配された人間に共通していることは、「あいつさえいなければ」という殺意だということです。


2. 共に生きるための早期の和解の務め(23~26節)

  • 「殺してはならない」という戒めと関連して、より積極的な意味として「和解、仲直り」を早期にするようにとイェシュアは命じています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章23~26節
23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。


  • 23節の「だから」と訳された接続詞は、前節にあるように、自分が憎悪をもって侮辱的・軽蔑的な発言をしたことで兄弟を傷つけ、そのことで兄弟に恨まれている(反感を持たれている)ことを思い出したなら、まず礼拝するよりも前に、あなたの兄弟のところに行って、仲直りをしなさいという意味です。相手に責任がある場合については、マタイ18章で扱われていますが、それによれば、傷つけられた者の方から出向いて行って、相手の罪を警告し、悔い改めさせなければなりません。
  • 神を礼拝する(ささげものをする)前に、自分の非を認めたなら、自ら行って「和解しなさい」と命じられています(アオリストの命令形)。つまり、自ら自発的な形で和解することは御国の麗しさをあかしすることになるからです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。」(Ⅰヨハネ4:20)とあるように、和解のイニシアチブ(主導権)を取らなければなりません。具体的には、自分の非を認め、悔い改め、相手に対して「お詫び」をして和解(仲直り)しなければなりません。あるいは、相手に責任がある場合には、自分の方から出向いて行って、相手の罪を警告し、いさめて悔い改めさせなければなりません。それはすべて兄弟姉妹と共に生きるためです。先方から詫びて来るまで待つという態度ではなく、先に気づいた者が和解のイニシアチブを取って、主にある関係を正常にすることに努めるのです。これが御国に生きる者とされた責務であり、課題だと言えます。神の愛による和解にならって、この務めがなされなければならないのです。
  • イェシュアの律法の解釈の原則は、すべて天の御国の視点からのものです。すなわち神と人とが、人と人とが和解した世界(=メシア王国の実現)であるという視点から語られています。したがって、5章23~26節では兄弟との和解に積極的に踏み出すようにと命じられているのです。それは、私たちの努力でそうした世界が実現するということではなく、神が目指されている世界がどのようなものであるかを示唆する務めとなるからです。
  • 「殺してはならない」という神の戒めについてのイェシュアの解釈は、単に(物理的に)「人を殺す」という枠を越えて、人の人格を重んじる神の和解の務め(受容と懇願)を含んだものであるということです。その意味では、イェシュアの律法の解釈はまさに革命的なものであったのです。神の律法の精神は、「神を愛すること」と「自分を愛するように人を愛すること」に尽きると言えるのです。

2017.5.13


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