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イェシュアのガリラヤでの宣教メッセージ

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2. イェシュアのガリラヤでの宣教メッセージ

ベレーシート

  • ナザレ人イェシュアはカペナウムをガリラヤ宣教の拠点とされました。自分の故郷のナザレでは拒絶されたためです。その理由についてはこちらを参照のこと。
  • イェシュアはカペナウムで安息日ごとに人々に教えられたとあります(ルカ4:31)。そして「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである」とあります(同、4:32)。「権威があった」とはどういうことでしょうか。おそらく人々が驚くような言行一致のイェシュアの姿を見たのかもしれません。
  • いずれにしても、イェシュアが最初に語った「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というメッセージには、イェシュアのこれからなされるすべての教えと御業が意味する中核が記されています。それはバプテスマのヨハネが語ったメッセージと全く同じですが、表面的には同じに見えても、本質的には全く異なるメッセージなのです。ヨハネの「悔い改め」には「自分の罪を告白して、水のバプテスマを受ける」だけでなく、「悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、さばかれる」というものでした。ところが、御国の王であるイェシュアが命じる「悔い改め」は、ただただ「神に立ち返る」だけなのです。何度でも・・・。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 4章17節

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」


●マタイは「天の御国」ですが、マルコは「神の国」と記しています。「天の御国」とは何なのでしょうか。イェシュアの語る教え、また奇蹟の御業どこを切ってもすべてこの「天の御国」のデモンストレーションなのです。使徒パウロもエペソの教会の人々に「御国の福音」を余すところなく語ったとあるように、この「御国の福音」は神のご計画の成就と密接な関係を持っています。


1. 宣教の開始の時期

宣教開始の時期.PNG
  • イェシュアが宣教を開始されたのは、およそ30歳です(ルカ3:23)。いわゆる3年半にわたる公生涯は、公に宣教を開始することによって始まりました。イェシュアが十字架にかけられたのは過越の祭りでしたから、その3年半前ということになります。それは仮庵の祭り頃です。この時期は右の図のように、神のご計画においてとても重要な時期であることがわかります。
  • イェシュアは30歳になるまでなぜ働きを開始されなかったのでしょうか。12歳の時点ですでにエルサレムにいる律法学者たちに立ち向かえる十分な知識を得ていたにもかかわらず、30歳になるまで、沈黙の時を過ごされました。しかしその間、神の永遠のご計画を成し遂げるための十全な準備をなさっていたと思われます。律法によれば、祭司の働きは30歳になってからでした。イェシュアは「御国の福音」を本格的に「教える」という祭司的務めのために、神の律法に従われたのです。

2. 「悔い改めなさい」

画像の説明

  • イェシュアが語られたメッセージは、「悔い改めなさい」という命令でした。ギリシア語の「悔い改める」は「メタノエオー」(μετανοέω)、ヘブル語は「帰る」を意味する「シューヴ」(שׁוּב)です。どこに向かって帰るのかと言えば、神に向かって帰ることです。そこには、罪を悔いるとか、懺悔するなどの条件は一切ありません。ただただ神に「向き直る」ことが求められています。
  • 「悔い改めなさい」のギリシア語は現在命令形です。これは一回的な自覚的な堅い決心ではなく、何度も何度も繰り返して、神に向かって立ち帰ること、向き直ることを意味しています。「悔い改め」という訳語についての脆弱性については、こちらを参照のこと。


3. 「天の御国が近づいたから」

  • 「悔い改めなさい」との命令の理由が語られます。その理由とは「天の御国が近づいたから」というものです。「天の御国」の「御国」は「バシレイア」(βασιλεία)、ヘブル語は「マルフート」(מַלְכוּת)です。御国とは王の支配する国、つまり、メシア王国のことです。その支配が「近づいた」とはどういうことでしょうか。ギリシア語の原文を見ると、「近づきつつある」という意味ではなく、また限りなく近づいているというのでもなく、すでに近くに来て、イェシュアとともに今やそこに到着してしまっていることを意味します。ギリシア語ではそれを「エンギゾー」(ἐγγίζω)の現在完了形で表わしています。
  • 現在完了形とは、過去になされた出来事、その結果の状態が現在も続いていることを表わします。つまり、イェシュアの到来によって「御国」がすでに来ていることを意味しているのです。御国(王国、kingdom)という概念は、ヘブル的視点から見るならば、神の力ある統治が人々のうちに、また奇蹟的な御業の中に、常に証明されるところの「国」なのです。単なる静的な「領土」を意味するものではありません。能動的な国なのです。ルカの福音書11章20節にある「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」ということばがそのことをよく言い表わしています。神の力の現われだけでなく、神ご自身のご性質の現われとともに来ているのです。
  • それゆえ、イェシュアは神に「立ち帰る」こと、神に「向き直る」ことを繰り返し(現在形)命じているのです。神はその「立ち帰り」に対して、必ずや恵みをもって報いてくださるからです。これは預言者イザヤも語っていることです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書30章15節
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。
「立ち返って静かにすれば、
あなたがたは救われ、
落ち着いて、信頼すれば、
あなたがたは力を得る。」


●なにゆえに、「立ち返る」者が「力を得るのか」と言えば、それは主が「あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」からです(同、30:18)。


  • 使徒パウロも、主に向くことの重要性を語っています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント4章3〜4節
3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです


●このおおいを取り除く唯一の方法があることをパウロは述べています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント3章16節
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

●人が主に向くことで、なぜおおいが取り除かれるのでしょうか。それは、主がその者に神の賜物としての「御霊」を与えられるからです。その御霊によって人は初めて福音の輝きを見る(知る)ことができるのです。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」(3:17)。それゆえ、「悔い改める」(主に立ち返る、主に向き直る、主に向く)ということが何よりも重要なのです。


2017.1.1


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