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なぜウジヤと呼ばれるようになったのか、その謎

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50. なぜ、ウジヤと呼ばれるようになったのか、その謎

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 26章1節~23節

ベレーシート

  • Ⅱ歴代誌26章に登場する王の名は「ウジヤ」です。しかし彼の本当の名前は「アザルヤ」であり、列王記ではその名前で記されています。なぜ、「アザルヤ」が「ウジヤ」という名前になったのか。いつ頃からそのような名前になったのか。その謎について考えてみたいと思います。おそらく、この研究は「ネーム・セオロジー」(名前の神学)の分野に相当するのだと思います。日本語で表記されている名前からはこの謎は決して解けません。しかし、ヘブル語で見ていくとその謎が見えてくるのです。
  • 「ウジヤ」という名前は本人が使った名前ではなく、おそらく他者がつけた名前です。「ウジヤ」という名前は「主は力」という意味。「アザルヤ」は「主は助ける」という意味です。なぜ、「アザルヤ」が「ウジヤ」という名前で呼ばれるようになったのか、そこには深い秘密が隠されています。

1. 「ウジヤ」王の生涯の外観

  • Ⅱ歴代誌26章が記すウジヤの生涯は大きく二つに分かれます。彼の治世はソロモン以降、ユダが最も繁栄した時代でした。強大な軍事力を持ち、西と南の海洋基地としての港を支配したことによって、経済的な繁栄を誇る国となりました。しかもそのような祝福を与えたのは神でした。ところが、26章5節にあるように、ある時を境にがらりと様相が変わってしまったのです。聖書は次のように記しています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌26章
    5節
    彼は神を認める(恐れる)ことを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が【主】を求めていた間、神は彼を栄えさせた。
    16節
    しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

  • 「ウジヤ」の生涯は大きく二つに分けられます。上記にあるように、ウジヤを教え導いていた「ゼカリヤ」の存命中は、彼の治世は栄えていたのですが、彼が死んでからはそうではなかったということです。聖書は、「ゼカリヤ」の死を境にして、その前と後とでは大きく変わってしまったことを記しています。その変化をまとめてみると以下のようになります。

    (1) ゼカリヤの存命中

    ①神を求めた(求めた「ダーラシュ」דָּרַשׁ)
    ②神を恐れることを教えられた(「ラーアー」רָאָה)脚注(1)
    ③神によって栄えた(「ツァーラハ」צָלַח)脚注(2)


    (2) ゼカリヤの死後

    ①強くなって心が高ぶり、「香をたく」という祭司職の越権行為をした。
    香をたく」(「カータル」קָטַר)とは、いけにえを焼いて煙にすることです。
    ②神のさばきとして、らい病(ツァラアト)に冒された(「ツァーラ」צָרַע)。


2. ヘブル的視点からの謎解き

(1) ゼカリヤ存命中のアザルヤ

画像の説明

画像の説明

※ここで重要なことは、ゼカリヤがアザルヤに主を「恐れる」ことを教えたので、アザルヤは主を「求めた」ことです。ちなみに、主を恐れることを教えたゼカリヤのヘブル表記は右の通りです。注目すべきことに、これらのかかわりのすべてにヘブル文字の「レーシュ」(ר)があるということです。

(2) 「アザルヤ」のヘブル語表記と「ウジヤ」のヘブル語表記

画像の説明

※ここで重要なことはヘブル文字の「レーシュ」(ר)が抜け落ちたことです。その時から「アザルヤ」が「ウジヤ」と呼ばれるようになったと考えられます。それは、ゼカリヤ存命中にあった良いものが抜け落ちたことを意味します。アザルヤは、ゼカリヤが死ぬと、彼が教えた神を恐れることをしなくなり、神を求めることもしなくなったことを示唆しているように思います。

3. 自分で「レーシュ」を取り戻そうしたウジヤはそのことで裁かれている

  • さらに興味深いことは、「レーシュ」(ר)という文字は、自分の生き方、行動の土台をなす「思考、考え」を意味します。ゼカリヤの存命中にもっていた彼の大切な土台は、ゼカリヤの死後に取り去られ、高ぶって、「香をたく」という罪を犯しました。これは祭司たちにのみ許されている行為で、王であってもしてはいけない越権行為でした。神はそれをご覧になられて(アイン」ע)、正義をもって(「ツェデク」צ)、彼の考え(「レーシュ」ר)をさばかれました。そのしるしが「ツァーラ」で、「らい病(ツァラート)に冒された」(צָרַע)ことを意味しているのです。「香をたく」という動詞の「カータル」קָטַרの語根の中にも「レーシュ」(ר)の文字がありますが、それはあくまでも自分の思考に基づく考えで、それが神によってさばかれたと言えます。

最後に

  • 「ウジヤ」の生涯を見ると、すべてがヘブル文字の「レーシュ」(ר)によって動かされているように見えます。つまり、神本位の「レーシュ」自己本位な「レーシュ」です。本来の名前である「アザルヤ」の中にある「レーシュ」の文字が消えて、それを自ら得ようして犯した越権行為の罪、そしてその「レーシュ」をさばく形での「ツァーラア」。すべてが「レーシュ」という文字に翻弄されています。
  • 神の思考、神の考えに立つ神本意のときにのみ、神は助けてくださるのです。彼の本当の名前は「アザルヤ」でした。それは、「主」(「ヤー」יָה)は「助ける」(「アーザル」עָזַר)という意味です。彼は本来そこにとどまるべきでした。しかし、彼が並はずれて強くなったとき、高ぶって、大切な神を土台とした「レーシュ」を失ったことを示す意味で、不名誉な名前の「ウジヤ」と呼ばれるようになったと言えます。周囲の人々は王による繁栄の背後に、彼の脆弱性を見抜いていたのかもしれません。
  • ヘブル語の「レーシュ」(ר)という文字は、頭、土台、思考を意味します。使徒パウロは「私たちは・・神の建物です」(Ⅰコリント3:9)と言いましたが、私たちの人生という建物の土台、あるいは頭石(要石)とは「キリスト」のことです。この土台の上に家を建てなければならないのです。すでに据えられているキリストという土台を別の土台にすり替えるならば、やがてウジヤのように、自分の身を滅ぼすことになるのです。ウジヤのストーリーはそのことを教えているように見えないでしょうか。

脚注(1)
ここで使われているヘブル語は「ラーアー」で、本来は「見る」という意味です。これを新改訳は「認める」と訳し、口語訳は「(神を)恐れる」と訳し、新共同訳は「畏れ敬う」と訳しています。そのような意味の場合、普通「ヤーレー」(יָרֵא)という動詞が使われますのですが、ここでは使われていません。しかし、「ラーアー」(רָאָה)にしても、「ヤーレー」(יָרֵא)にしても、いずれにも「レーシュ」という文字が使われているのは興味深いところです。つまり、ヘブル語は神の概念を伝えるための文字です。ですから、私たちが見るべきもの、恐れる(畏れる)べきものは、「レーシュ」という文字の中に隠されているのです。


脚注(2)
「ツァーラハ」(צָלַח)は、神の恩寵を表わす動詞です。ヨセフは神が共におられることで幸運な者となり、彼のなすことを栄えさせました。アブラハムのしもべエリエゼルはイサクの嫁を捜すために旅に出ましたが、主がそれを成功させてくれました。詩篇1篇3節にもあるように、主の教えを愛する者を、主は何をしても栄えさせるとあります。つまり、神を求める者には、神はどこまでも激しく祝福を注いでくださり、栄えさせてくださるのです。

「ツァーラハ」(צָלַח)とは、杖をもって教え導く指導的な存在である神(「ラーマド」ל)が、正義(「ツェデク」צ)をもってかかわっくださり、強め(「ハーザク」ח)、あるいは、生かし(「ハーヤー」ח)てくださるという三つの文字からできています。


2014.4.9


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