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なぜ、ヨハネはもうひとつの福音書を書く必要があったのか?

序 なぜ、ヨハネはもうひとつの福音書を書く必要があったのか?

1. 「ヨハネの福音書」が書かれた時代

  • 「ヨハネの福音書」は、1世紀の終わり頃か、あるいは2世紀の初頭に書かれたと言われています。すでにイエス・キリストの福音は、ユダヤ人にも異邦人にも宣べ伝えられてました。そして、ローマにおいてはいよいよ本格的な迫害を受ける時代に入っていきます。この福音書を書いた人がヨハネであるならば、100歳近くになっています。そのヨハネはなぜもうひとつの福音書を記す必要を感じたのでしょうか。なぜ、ヨハネが共観福音書とは全く異なる「福音書」を書く必要性があったのでしょうか。
  • イエス・キリストの出来事(十字架の出来事と復活)はAD30頃です。それからもうすでに、60年以上たっています。福音は当時、世界を支配していたローマ帝国の底辺である奴隷たちから有力者に至るまで浸透していきました。新約聖書の手紙の大部分を書いた使徒パウロの宣教もすでに終わっています。AD70年にはユダヤ人にとって拠り所であるエルサレム神殿の崩壊によって、神の民として選ばれたユダヤ人たちは世界各地に離散を余儀なくされました。イエスを信じるユダヤ人よりも異邦人の方が数としては増えていきます。クリスチャンに対する迫害は強まり、教会も異端との戦いが本格的に始まって行く時代を迎えつつありました。それに対する教会の制度と組織化、また、福音を担う世代の交代が起こってきたことも事実です。

2. ヨハネが福音書を書かなければならなかった理由とは

  • そうした時代の中で老練なヨハネがこれまでの歴史を振り返りながら、またこれからの迫害という時代を迎えつつある時代を予感しつつ、もうひとつの福音書を書かなければならなかった理由とはなんだったのでしょうか。
  • そのひとつの答えとして上げるとすれば、それは「いのち」です。

ヨハネはこれを「永遠のいのち」と表現しています。それは「神のいのち」であり、永遠の神である三位一体(御父、御子、御霊)の交わりの神秘としてのいのちです。この「いのち」は神ご自身のうちにおいて、また神と人とのかかわりにおいて、最も重要な根源的問題です。

「いのち」(永遠のいのち)とは、三位一体なる(御父、御子、御霊)神のうちにある愛の交わりを意味します。「永遠のいのちを持つ」とは、その神の愛の交わりの中に招かれ、その中に生かされることです。この「いのち」に与るためには、上からの光に導かれて、信じることが必要です。

  • いのちの枯渇、閉塞感、行き詰まり現象。たとえどんなちいのち溢れるものでも、時代の経過とともにその「いのち」は薄れてくる宿命にあります。ヨハネは、当時の霊的閉塞感に突破口を開こうとして福音書を書いたというのが、私の考えです。つまり、神のひとり子としてのイエス・キリストを通して与えられる「永遠のいのち」をあかしすること、その「いのち」の本源とその栄光について伝える必要に迫られたと考えます。
  • 「いのち」の枯渇化はいつの時代にも繰り返されます。上からの光によって常にそれが回復される必要があります。その必然性のゆえに、ヨハネは福音書を書く必要があったのです。

3. 霊的突破口を開かせる直感

  • ヨハネの福音書1章14節に
    「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(「幕屋を張った」という意味)。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」とあります。具体的に、ヨハネが御子イエスの栄光をどのように見たのか、その記録こそがヨハネの福音書と言えます。
  • ヨハネの福音書には、ユダヤ的な伝統、たとえば「ユダヤの祭り」、「モーセの幕屋」、あるいは旧約時代の出来事にまつわる象徴的表現(臨在としての「栄光」「マナ」「水」など)が使われています。そうした象徴を新しい光によって理解するためには、霊的な直感力を必要とします。
  • ヨハネという人はすぐれた「直感的思考」の持ち主です。福音書1章1~5節を読むだけでもそのことが伺えます。直感の世界、直感的思考とは、論理的な世界、論理的思考とは異なるものです。論理的世界というのは、理性、知性によってものごとを秩序立てて考える世界です。タイプとしては、理数科系タイプ。学者とか、弁護士とか、筋道を立ててものごとを考えるタイプ。頭脳では左脳の働きを重視します。それに対する直感的世界とは、ものごとを感性によって、つまりひらめきによって認識したり、理解したりする世界です。タイプとしては文系タイプ。芸術家タイプ。右脳の働きを重視する。ことばや物事の筋道をうまく説明できないことを表現する能力といっても良いと思います。ことばによる説明をうまくすることができなくても、何かが分かってしまうという世界です。
  • 福音書を書いたルカとヨハネはこの二つのタイプをそれぞれ代表しています。

(1) ルカの場合
ルカの福音書1章3節には「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」

(2) ヨハネの場合
20章30節「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあるように、綿密に、順序立てて訴えるよりも、もっと直感的に大切なことを、つまり、「いのちを得る」ということが大切と言わんばかりに、それを得られるならばすべて良しと言った世界です。表現形態も、「ことば」「いのち」「光」と言った「象徴的な表現」が多いのが特徴です。奇蹟もあることを直感的に指し示す「しるし」として提示されています。ヨハネは七つの「しるし」を通して、それが指し示す重要な事柄、深遠な事柄を直感的に指し示そうとしているのです。

  • 今日の日本では、凡ての面における閉塞感を人々は感じています。ビジネスの世界においても、教育の世界においてもです。これまでの枠でやっていてはダメなんだという意識です。教育の面でも、多くの子どもたちが学校という枠に入り切れないでいます。今日の不登校、ひきこもり現象、学習意欲の不振、からフリー・スクールなるものが立ち上げられている。これまでの学校という枠を超えて、もっと自由に、遊びの要素をふんだんに取り入れた取り組み。それは創造性を引き出し、個性を伸ばす上で重要な面です。教師が何かを教えるというよりも、自分の体を通して、見る、聞く、味わう、触れる。嗅ぐという五感による世界との関わり、認識の仕方を重視すること。・・・学校という枠にとらわれない教育が求められています。科学の分野においても、直感の世界がどうしても必要だといわれている。ノーベル賞をもらった科学者の中には、ある発見が偶発的、あるいは失敗によってもたらされた人たちがいる。直感が働かなければ、失敗で終わってしまった出来事が、偉大な発見につながるという紙一重の世界が存在します。
  • ましてや「いのち」の世界はなおさらのこと。伝統、制度、組織、あるいは神学にとらわれないない柔軟な姿勢が必要です。「直感」を大切にするということはこれまでの枠に囚われない勇気が求められます。その意味でも、心を柔軟にして、「上からの知恵」「天からの光」を求めていく瞑想を、日々訓練する必要があるのだと思います。

2012.9.15


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