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その労苦は終わり、その咎は償われた

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41. その労苦は終わり、その咎は償われた

【聖書箇所】 イザヤ書40章2節後半

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【読み】
キー マーレアー ツェヴァーッハ 
キー ニルツァー エオーッハ 
キー ラーケー ミッド アドーイ 
キフイム ベル・ハットーハー

【文法】
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原文を見ると分かるように、実に整った文型です。宣言の理由を示す三つの句がすべて「キー」で始まっています。岩波訳だけがこの「キー」を正確に訳しています。

【翻訳】

【新改訳改訂3】
「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
【口語訳】
「その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を/主の手から受けた」。
【新共同訳】
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
【岩波訳】
「まことに、彼女の苦役は終り、まことに、彼女の咎は償われた。まことに、彼女はヤハウェの手から受けた、彼女の総ての罪に倍するものを、と」
【NKJV】
That her warfare is ended, That her iniquity is pardoned; For she has received from the Lord's hand Double for all her sins."

【瞑想】

「終わり」「償われた」「受けた」の三つの動詞はすべて完了形です。出来事としてはまだ先の事ですが、それがすでに実現したことを意味します。これはヘブル語の特徴で「預言的完了形」と言います。

「彼女の労苦は終わった」とは、かつて罪によって捕囚の民とされたエルサレム(ユダの人々)が、捕囚の地で神の民としてリセットすべく期間を十分に満たしたことを意味します。それは二代、三代かけて取り組まれた霊性の回復だったのです。捕囚の身となった民は、バビロンの地において、神の民として再建(復興)するために神から与えられた「トーラー」の価値を見出し、トーラーライフを築くことができたのです。単に、罪による労役の期間が終わったという意味ではなく、神の意図したことが十分に満たされたという意味です。

このことが、「彼女の咎は償われた」と表現され直します。つまり、同義的並行法によって、「労苦は終わった」ことと「咎は償われた」とは同義なのです。「償う」の「ラーツァー」は、本来「喜ぶ、愛する、喜んで受け入れる」という意味です。その受動態がここで使われることによって、咎による捕囚という試練が民にとって良い結果をもたらし、そのことによって神に喜んで受け入れられたことを意味します。民たちも「苦しみ会ったことことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:71~72)と告白するまでになったのです。これが「償われた」ことの意味です。

「二倍のものを主から受けた」というのも同義的並行法として理解すべきです。神の意図によって捕囚の民とされた者たちは、想像以上の祝福をもたらしました。「二倍のもの」という表現はここでは「普通以上に、想定外に、おびただしいほどの、豊かで、有余るほど十分な」と理解することができます。ヘブル語の「二倍の」とは、文字通りの意味ではなく、あることを誇張するための修辞法です。詩篇119篇を一読するならば、その祝福が直に伝わってきます。

あるいは、「二倍」とは「長子の権利」を意味するとも考えられます。長子の場合、他の兄弟とは異なり、父から二倍の相続が与えられます。したがって、神の民(ユダ)が「すべての罪の代わりに、二倍のものを主から受けた」とは、再び、長子としての権利を回復したとも解釈することができます。

いずれにしても、イザヤ書40章1~2節にあるの冒頭の呼びかけは、神の民が(私たちが)神からの慰めを受けるとはどういうことなのか、そのことを教えられます。

【付記】

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楽譜「ナハムー ナハムー アンミー」

2013.3.27


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