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しもべなるキリスト <1>

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C-04. しもべなるキリスト <1>

はじめに

  • 新約聖書の福音書におけるイエス・キリストのディアコ二ア(奉仕―仕えること)を学ぶ前に、旧約聖書、特にイザヤ書の後半に預言されている「主のしもべ」としてのメシアに注目してみたい。
  • 預言者イザヤは、四つの「主のしもべの歌」を記している。その歌にはメシア、すなわちキリストが「主のしもべ」として来られることが預言されている。その歌の箇所は以下、
    ① 42章1~4節、
    ② 49章1~6節、
    ③ 50章4~9節、
    ④ 52章13節~53章12節
    これら四つであり、しもべの姿が実にいろいろな角度から描かれている。()

(1) しもべなるメシアの四つの姿

① しもべの召命(イザヤ書42章1~4節)

  • 「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」
  • 神がしもべとしてお選びになった方は、神の圧倒的な支持を受け、しかも神が心から喜んで託すことのできる方である。イエスが洗礼を受けられたとき、天から声がして「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われたが、まさにこのイザヤ書42章1節のことばであった。この方は「国々に公義をもたらし」(口語訳「道をしめし」)、「まことをもって公義をもたらす」(口語訳「真実をもって道を示す」)とある。4節には「彼は衰えず、くじけない、ついには公義を打ち立てる」(口語訳「・・遂に道を確立する」)と預言されている。
  • 神のしもべは、本当の道を見失い、行き詰まってしまった人々の「いたんだ葦を折ることもなく」「くすぶる灯心を消すこともない」方として、弱い人々に行き届いた配慮を持って、くじけることなく道を教えるお方として預言されている。やがて来られたイエスはまさにそのようなお方であった。マタイ12章18節参照。

② しもべの使命(イザヤ書49章1~6節)

  • 「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして、私に仰せられた。
    『あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちにわたしの栄光を現わす。』しかし、私は言った。『私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。』今、主は仰せられる。――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」
  • この箇所はしもべの使命について触れられている。つまりこのしもべが、その生涯においてどのような働きをするか、その働きについて記されている。
  • 「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちにわたしの栄光を現わす」 しもべは真のイスラエルとして神の栄光を現わすために立てられた。しかしその働きは、「むだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、・・力を使い果たすような」ものであった。人々はこのしもべを斥け、受け入れないと預言されている。しかしそのような挫折感を味わうような困難の中でも、しもべはなおも「私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある」と神を信頼してその使命を主人のために全うしようとする。
  • またしもべの使命はイスラエルのみならず、諸国の民の光として、地の果てにまで神の救いをもたらすと預言されている。

③ しもべの受難(イザヤ書50章4~9節)

  • 「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」
  • この神のしもべは、単に挫折感を感じただけではない。人々に真の道を教えようとようとするとき、かえって、ひげを抜かれ、つばきをかれられ、迫害を余儀なくされる。なぜそこまでするのか。ところが、このしもべは主人を愛している。何が起ころうともしもべとしての務めを果たそうとする。なぜなら、主人である神は、しもべの耳を開かせ、いつでもその声が聞こえるようにしてくださったからである。聞くとは従うことである。しもべは主人の声を聞いて、迫害の中に立ち向かっていかれた。主イエスのゲッセマネの祈りとその後の毅然とした姿を思い起こそう。

④ しもべの身代わりの死とその克服(イザヤ書52章13節~53章12節)

  • 「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。―彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。・・彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。・・彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。・・・・彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
  • しもべは自分の罪のゆえではなく、人々に代わって神に打たれた。その打ち傷によって人々はいやされる(救われる)。しもべは、自分のいのちの激しい苦しみの後を見て、満足する。しもべの身代わりの死は多くの人を義とする。そして今もなお、主イエスは神に背く人々のためにとりなしておられるのである。

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◆小林和夫著『イザヤ書講解説教(下)』(日本ホーリネス教団出版社、1992年)を参照のこと


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