****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

しまめのう

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1. 大祭司の胸当てに埋め込まれている12の宝石

(11) 「しまめのう」ー「 アシェル部族」

画像の説明

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ベレーシート

しまめのう.JPG
  • 「しまめのう」(新改訳、口語訳は「縞めのう」)と訳された原語は「ショーハム」(שֹׁהַם)です。新共同訳は「ラピス・ラズリ」と訳しています。バルバロ訳では「紅玉髄」と訳されています。この石が聖書で初めて登場するのは、ハビラの地に産する「エヴェン・ハッショーハム」(אֶבֶן הַשֹּׁהַם)、すなわち、「ショハムの石」として記録されています。
  • ちなみに「ハビラ」とは、エデンから発していた川の四本の分流の一つであるピションが巡っていた地のことで、一説によれば、ハビラは少なくともアラビア半島の北西部,あるいはもっと大きな地域を含んでいたとされています。
  • 創世記2章12節にあるハビラの金は良質とありますから、「ショハムの石」もおそらく良質で、高価な宝石であったと考えられます。その宝石にアシェル部族の名前が刻まれることになったのはどうしてなのでしょうか。
    ショーハムの親語根.JPG
  • ところで、この「ショーハム」の親語根は何か。またそこから派生する語彙としてどのようなものがあるかを調べてみると、以下のようなことが分かります。

    (1) 親語根は שׁם と考える事ができます。
    (2) 「荒廃」を意味する「シェマーマー」(שְׁמָמָה)
    (3) 「縞めのう」を意味する「ショーハム」(שֹׁהַם)
    (4) 「肥沃、油、豊かさ」を意味する「シェメン」(שֶׁמֶן)

  • すべて名詞ですが、「しまめのう」の模様がうねっているように、親語根から派生する語彙も「荒廃」と「豊かさ」の正反対の意味を有しています。ここで注目したいことは、「シェメン」(שֶׁמֶן)の意味が「しまめのう」の宝石に刻まれている「アシェル部族」の名前と密接な関係にあるということです。

1. 「アシェル」という名前の意味

  • 「アシェル」(「アーシェール」אָשֵׁר)は、ヤコブの第八番目の子で、レアの女奴隷ジルパが産んだ子です。ジルパにとってはガドに次ぐ二番目の子でしたが、そのとき、女主人のレアは「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう。」と言ってその子を「アシェル」と名づけました(創世記30:13)。その語根は「アーシァル」(אָשַׁר)で、「祝福された」「幸せな者とされる」という意味です。
  • 父ヤコブ(イスラエル)のアシェルに対する祝福と、モーセのアシェル部族に対する祝福は以下のとおりです。

    【新改訳改訂第3版】
    創世記49章20節
    アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す

    ●アシェル族はやがて約束の地においてフェニキヤに隣接する地中海沿岸地帯を相続します。そこは豊かな土地であるばかりか、フェニキヤの豊かな物資が入って来る地域でした。その豊かさのゆえに「王のごちそうを作り出す」とあります。ソロモン王の治世には各部族から食糧が王宮にとどけられましたが、アシェル族はその中でも抜きんでたごちそうを送ることが出来たのかもしれません。


    申命記33章24~25節
    24 アシェルについて言った。
    「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。25 あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

    ●申命記33章でのアシェル部族の祝福は、兄弟たちの中で最も祝福され、愛されるようになるとあります。ちなみに、バルバロ訳は「子らの中でいちばん祝されたアシェル。彼は兄弟の中で秘蔵の子である。」と訳しています。ヤコブの息子たちの中の神の「秘蔵の子」とは不思議な部族という印象を受けますが、その「アシェル族」出身の女預言者アンナ(ハンナ)がイェシュアの誕生の時期に登場していることも不思議です。
    ●アシェルとその子孫は地中海沿岸の最も豊かな地が与えられます。そこはオリーブの地、緑豊かな地域です。オリーブ油は祝福の象徴であり、「その足を油に浸す」とは繁栄のしるしを意味しています。
    ●そして、アシェル部族が住む町の防備が堅固であるようにとあり、さらに「あなたの力があなたの生きる限り続くように」ともあります。ここの「力」と訳された「ドーヴェー」(דֹּבֶא)は旧約でここ1回しか使われていない語彙で、意味の確定は難しいところですが、ある人はこの「ドーヴェー」を「快適な歩み」(アメニティ・ライフ)の意味だとしています。つまり、「快適な歩みがあなたの生きる限り(日々)あるように」ということです。
    ●その地はパレスチナへの侵入者の通り道であったため、その町の防備が堅固であるようにと祈られています。「かんぬき」と訳されたヘブル語の「ミヌアール」(מִנְעָל)もこの箇所にしか使われていない語彙で、「くつ」と訳している聖書もあるようです。とすれば、24節と25節はパラレリズムとしてつながります。つまり、「油に浸された足」と「鉄と青銅でおおわれた足」です。前者は恵みあふれる豊かさを示し、それとは対照的に、後者は神の敵を破壊する力を示していると言えます。


2. 「アシェル」の精神

  • 「しまめのう」の語彙の周辺には「荒廃、荒野」と「豊かさ、充満」のイメージが同時にうねっています。イェシュアが「御国の福音」を宣べ伝えるべくその使命を本格的に開始される前に、御霊はイェシュアを荒野へと導かれました。それは悪魔の試みを受けるためでした。イェシュアは悪魔の誘惑に対して「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある」と言って、悪魔の誘惑を退けられました。
  • この試みは、イェシュアの足が「油の中に浸された足」となるためです。やがてイェシュアの足が踏むところどこにおいても、豊かな恵みをもたらすようになるためです。ヨハネはこのことを「私たちはみな、この方(イェシュア)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」と言っています(ヨハネ1:16)。と同時に、その足は敵の力を打ち砕く力をもっています。やがて将来、イェシュアが再臨される時には、「炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのような」(黙示録1:15)足をもって来られます。そして、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20)とあるように、花婿イェシュアに従う花嫁の足もまた、「鉄と青銅でおおわれた」ようになるのです。
  • 今日の教会が、尽きることのない神の恵みの豊かさをもたらすためには、意識的に、荒野に退く必要があります。荒野においてみことばのいのちを回復する必要があると信じます。イェシュアが「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しいところへ出て行」かれたように、私たちも神との交わりを求めて荒野(寂しいところ)に行く必要があるのです。そのことを御霊のうながしと感じる者こそ、アシェルの霊性をもった人だと言えます。




2014.6.18


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