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ご自分の民を救うために出て来られる主

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5. ご自分の民を救うために出て来られる主

【聖書箇所】 3章1~15節

ベレーシート

  • ハバクク書3章は「ハバククの詩篇」と言われています。神のさばきの幻と同時に主の勝利が賛美されていますが、その主が怒りを燃やす目的があります。それは「ご自分の民を救うため」です。そのために主は、主に反逆する諸国を踏みつけ、その頭を粉々に砕き、その足もとから首まで裸にされるのです。ハバククはそうした「幻」を聞き、その出来事を見て恐れました。そして、ハバククは「この年のうちに」示して下さいと祈っています。「この年のうちに」とは「できるだけ早く、早期に」という意味です。
  • 旧約においては、神がさばきの中でご自身の臨在を顕わされる時には、自然界ー山や海、大水、雷鳴、稲妻、暴風、火、地震などーの表象と結びつけられています。その表象によって神の本性や属性やさまざまな様態が現わされるのです。
  • 例えば、「主は大水の上にいます。」(詩篇29:3)、その主が「いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。」(詩篇18:16)という場合、「大水」とは「強い敵」「憎む者」を意味し、そこから救い出されたことを意味します。また、「私の主、神は・・私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませてくださる。」(ハバクク3:19)とあれば、主は「雌鹿」のように「力を帯びさせ」てくださることを意味しています。主の声が「レバノン杉を打ち砕く」とあれば、主には目に見える立派な力ある存在を打ち砕く力があることを表しています。火や炎の比喩も、神の不可抗力的な力を表しています。

1. 主は、必ず「来られる」

  • ハバクク書3章1~15節に、「来られる」と訳された動詞が5回あります。

(1) 3節
神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる
(2) 8節
あなたは馬に乗り、あなたの救い(勝利)の戦車に乗って来られます
(3) 13節
あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ
あなたに油注がれた者を救うために出て来られます


●上記の三つの節の「来られる」という動詞は、
(1) 3節「ヴォー」(בוֹא)
(2) 8節・・「来る」という動詞はなく、「馬に乗る」ことが「来る」ことであると意訳しています。
(3) 13節「ヤーツァー」(יָצָא)で、ある目的のために主のみもとから出て来るというイメージです。新改訳では二度「出て来られる」としていますが、原文では「ヤーツァー」1回しか使われていません。

  • 主が「来られる」ときにさばきがもたらされ、「諸国の民」は震え上がります。主の進軍には「疫病」と「熱病」が伴い、「とこしえの山」は打ち砕かれます。このように神の臨在には激しさと栄光の輝きが現わされます(3~6節)。また、川や海の水を干上がらせ、山々は震え、豪雨によって深い淵はうなりを生じ、嵐の電光は矢として描くことで神の顕現を示しています。つまり、神の臨在が現わされるのは、敵を滅ぼして神の民(イスラエル)を救うためなのです。その顕現と働きを自然界の描写によって表わしています。これが旧約的な神の顕現を表わす表現なのです。

2. 神の顕現によってもたらされるさばき

  • 聖なる神がご自分の民を救うために「来られる」とき、神に敵対する勢力がどのようになるかをハバククは記しています。

【新改訳改訂第3版】ハバクク書3章13節後半~15節
13・・・・あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。セラ
14 あなたは、戦士たちの頭に矢を刺し通されます。彼らは隠れている貧しい者を食い尽くす者のように、私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。
15 あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせられます。


●13節後半~15節に、神に敵対する者たちのさばきの三つの様相が描かれています。

(1) 「悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。」

●「頭」と訳されたヘブル語は「レーシュ」(רֵאשׁ)ですが、新共同訳はこれを「屋根」と訳しています。そして、「足もとから首まで裸にされます」とは、メリスマ法で「足もとから首まで」とはその全体を意味し、「裸にする」とはその存在の根源的部分を露わにするという意味です。医者が病人を治療するために、その病の根源的な部分を治療するようなものです。

●イェシュアが行なった様々ないやしの奇蹟はそのことを示唆しています。例えば、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれてイェシュアのみもとに連れてこられましたが、群衆のために近づくことができませんでした。そのため四人の人は「屋根をはがして」中風の人を床につり降ろしたという話があります。「屋根をはがす」ということが尋常ではありませんが、そのことによってイェシュアはこの中風の人の根源的な問題点となっている罪を赦されたのです。なぜなら、神の世界においては、「ネフェシュ」(目に見えない部分)の方が、「バーサール」(目に見える部分)よりも重要だからです。

(2)「彼らは・・私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。」

●ここで「彼ら」とは神に敵対する者たちです。「私」とはハバククに代表される神の民のことだと考えることができます。神が彼らの頭に矢を刺し通されることで、彼らは神の民を絶滅しようと「荒れ狂います」。それは怒り狂うという意味で、「海」「湖」が荒れる表象と似ています。終わりの時が近づくにつれて、海はますます荒れて来るのです。キリストの再臨がもし満月の時だとすると、海は最も荒れている時です。

●イェシュアの奇蹟において、しばしば「ガリラヤ湖」が荒れるシーンがあります。イェシュアだけがその嵐を静めることのできる方として現わされます。

(3) 「あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ」

●ハバククがここで語っていることはすべて「終わりの時」の幻です。つまり、メシア王国の前後の出来事についての幻なのです。「あなたの馬で海を踏みつける」という表現に注目すると、「馬」は神の力を象徴するものです。「海」は常に神に敵対する者たちの勢力を意味します。ですからその海が「荒れ狂っている」ということは神に敵対する勢力が最後のあがきをしていると言えます。その海を主が踏みつけるのです。口語訳はこの箇所を「海と大水のさかまくところを踏みつけられた」と訳しています。「海」も「大水」も聖書では神に敵対する勢力を象徴しています。それを「踏みつける」と訳されたヘブル語は「ダーラフ」(דָּרךְ)で、「歩く」だけでなく、「歩いて渡る」という意味もあるのです。

●マルコの福音書6章45~52節に「イェシュアが湖上を歩く」記事があります。イェシュアが強いて弟子たちを乗せた舟が逆風で岸につけることができず、弟子たちが困窮していた(極限状態の)時、午前3時頃の最も暗い時刻に、イェシュアは湖上を歩いて彼らのところに近づいて来られました。まさにその状況こそ、ここでいう「海を踏みつけ」ている状況なのです。

●イェシュアのすべての奇蹟は、人々を驚かそうという意図でなされたのではありません。「御国の福音」がいかなるものであるかということを奇蹟という形で伝えようとしているのです。したがって、「なぜ、水の上を歩けるのか」といった問題はここでは全くナンセンスなのです。すべては旧約に預言されていることをイェシュアが成就しようとしているのです。イェシュアのすべての言動の土台(背景)には旧約全体があります。換言するなら、イェシュアはイスラエルのストーリーを完成(成就)させるために来られたのです。それゆえ、私たちは旧約に語られていることを謙虚に、より注意深く、そしてじっくりと学ぶ必要があるのです。


2015.6.19


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