****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

いこいの水のほとりに(改)

瞑想(4) 「憩いの水のほとりに」(v.2b-1)

画像の説明


  • 2節後半にある「憩いの水のほとりに伴われます」は、前半の「緑の牧場に伏させ」の思想を、さらに繰り返した表現(同義的パラレリズム)と言えます。新改訳で訳された「憩いの水のほとり」の「憩い」は「メヌホーット」(מְנֻחוֹת)で、「休息」「安息」を表わすことばです。それは「もの静かな水べに」(フランシスコ会訳)と訳されているように、休息だけでなく、静寂、静謐(せいひつ)のイメージが加わります。英語訳でも the still waters / the water of comfort / the tranquil waters / the quiet watersと訳されているように、静かな、穏やかな、心の落ち着く平静な、しかも気持のよい快適な清閑な空間のイメージです。羊飼いである主は「静寂の水辺に」、私を導かれる方なのです。
  • 主との親しい交わりを深めるためには、静まること、沈黙することが大切です。じっと静まれる場、神の御前に耳を澄まして待ち望む姿勢がとれる場所が必要です。生活のテンポの速さ、息つく暇も与えない活動、人との交流や奉仕などから身を隠して、一人になって静まりと沈黙の時を過ごす時が必要です。喧騒に満ちた時代だからこそ、一人になることの大切さ、日ごとの黙想、瞑想の時間が大切にされなければならないのです。特に、朝のみことばの前における沈黙は一日の全体に大きな影響を与えます。
  • ドイツのナチに敢然と立ち向かった牧師、ボンフェッファーは『共に生きる』という本の中で「ひとりになることについて」次のように述べています。「ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。交わりの中にいない者はひとりでいることを用心しなさい。・・ひとりでいる日がなければ、他者と共なる日は交わりにとっても、個人にとっても、実りのないものとなる。」と。

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