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あなたがたは耕地を開拓せよ

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10. あなたがたは耕地を開拓せよ

【聖書箇所】ホセア書 10章1~15節

ベレーシート

  • 主に対する悔い改めの呼びかけは、ホセア書6章1〜3節にもありました。

    【新改訳改訂第3版】ホセア書6章1〜3節
    1 「さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
    2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
    3 私たちは、知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

  • しかしこの呼びかけと神への悔い改めが浅薄なものであったため、主ご自身から「あなたがたの誠実(ヘセド=神への愛)は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(4節)と手厳しく非難されています。
  • 人間は豊かになる時、最も神との関係を危うくします。なぜなら、その豊かさに心が奪われてしまい、その実をもたらしてくださった根源である神を忘れるようになるからです。この危険はイスラエルの民が約束の地カナンを前に、モーセを通して「あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる」(申命記8:19)と警告されていました。
  • ホセア書10章では、イスラエルの偶像礼拝の罪に対するさばきが下ることはもはや避けられない状況でした。そのさばきはアッシリヤによる侵略によって、首都の「サマリヤは滅びうせ、その王は水の面の木切れのようだ。」(7節)と語られています。激流に流される「木切れのよう」に王の権威は無力となり、あちらこちらに打ちつけられながら滅びていくと語られ、そのことが歴史の中で実際に起こったのです。
  • にもかかわらず、神は滅びを前にしたイスラエルの民に対して、彼らが悔い改めてご自身に立ち返ることを最後まで諦めません。その神の忍耐を10章12節のみことばに垣間見ることができます。今回はこの呼びかけに心を開きたいと思います。
  • この10章12節は、これまで教会のリバイバルを求める人々にとって、その祝福に与るために必要なみことばとしてしばしば用いられてきました(例えば、アーサー・ウォリス著、村瀬俊夫訳「きよき手を上げよ」ーリバイバルの聖書的原則ー、1966年、いのちのことば社)。

【新改訳改訂第3版】ホセア書10章12節
あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。
あなたがたは耕地を開拓せよ。
今が、【主】を求める時だ。
ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。


【新共同訳】ホセア書10章12節
恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。
新しい土地を耕せ。
主を求める時が来た。
ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。


1. 三つの命令と二つの恩寵

  • この節には「立ち返る」という語彙はありませんが、以下の三つの命令は神に立ち返ることなくしては到底できないことです。それぞれの命令は農耕的用語で、「種を蒔く」(「ザーラ」זָרַע)、「刈り入れる」(「カーツァル」קָצַר)、「開拓する、開墾する」(「ニール」נִיר)という動詞が使われています。特に、「ニール」はこことエレミヤ書4章3節にしか使われていない動詞です。名詞の「耕地」も同じく「ニール」(נִיר)と表記します。

(1) 正義の「種を蒔け」
(2) 誠実の実を「刈り入れよ」
(3) 耕地を「開拓せよ」

  • これらの三つの命令は別々の事柄ではなく、連動して、一つにつながっています。
  • 「正義の種を蒔け」の「正義」(「ツェダーカー」צֶדָקָה)は、神との正しいかかわり(=義)を意味するもので、「救い」「恵みのわざ」とも訳されます。ホセア10章12節の原文には「あなたがたのために」(「ラーヘム」לָכֶם)という言葉が入っています。つまり、「自分たちのために種を蒔け」ということです。残念ながら、新改訳も新共同訳もその言葉が訳されていません。神との正しいかかわりの中でみことばの種を自分たちの心に、自分たちのために、蒔くことを命じています。
  • 詩篇126篇5~6節に

    5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
    6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

とあります。5節と6節とは同義的パラレリズムです。「涙とともに種を蒔く」とはどういうことでしょうか。この箇所をしばしば伝道の働きに解釈して、涙ながらに苦労して伝道するならば、必ず、束を抱えるような収穫を得ると解釈されることが多いのですが、この箇所はそのような意味ではありません。この箇所は働きを励ますことではなく、神とのかかわりのために必要な、神との正しいかかわりを築くための「種蒔き」なのです。

  • バビロン捕囚の出来事は神がご自身の民をふるいにかけるためのものでした。神の民を再び新しくするために、あえて神の都エルサレムを敵の手に渡しました。「種」とは神のことばであり、「種入れ」とは神の律法の書、あるいは神のおしえである「トーラー」のことです。「涙とともに」とはエルサレム陥落とバビロン捕囚、およびそこでの生活を指しています。神の民がそこで神のことばの種を自分たちの心の中に蒔くことを神は願われました。もし良い地に神のことばの種が落ちるならば、黙っていても芽吹き、多くの収穫が期待できます。良い地とは涙によって耕され、柔らかくされた心なのです。
  • バビロン捕囚の涙の経験を経て、神の民はみことばを通して神との新しい生きたかかわり、つまりトーラー・ライフが形成されていきました。人々はみことばを深く掘り下げることで神のみこころを見出し、神に仕える者にふさわしく整えられた時に、涙が喜びの叫びに変わる突然の解放が訪れたのです。このことは、「終わりの日」に起こる型です。

2. 「耕地を耕す」ことは、神の恵みのわざ

  • 「耕地」(「ニール」נִיר)を、口語訳は「新田」と訳し、新共同訳は「新しい土地」と訳しています。「耕地」という言葉は、すでに一度は耕されながらも長く放っておいたために、いばらや雑草が茂ってしまった地をイメージさせますが、それはいわば新しい土地と何ら変わりません。そこを「耕す」(「ニール」נִיר)ことは決して容易ではありません。なぜなら、

    (1) 土壌は堅くなってしまっているからです。
    それゆえ「多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず」(ハガイ1:6)状態なのです。

    (2) 雑草で覆われているからです。
    この雑草をひとつひとつ取り除く必要があります。イェシュアも種蒔きのたとえで、いばらが伸びて、良い種をふさいでしまう地について述べています。

    (3) 新田はそのままでは決して実を結ばないからです。
    どんなに多くの種が蒔かれたとしても、どんなに豊富な雨量があったとしても、良い実を結ぶことはありません。不毛の地です。

  • 「耕す」ことにおいて、私たちの力は無力です。ただただ神の前にへりくだるしかありません。しかしこのへりくだる心を持つとき、神の恵みのみわざが始まります。そのことをホセア書は次のように記しています。

    【新改訳改訂第3版】ホセア書10章12節後半
    今が、【主】を求める時だ。
    ついに、主は来て、正義(「ツェデク」צֶדֶק)をあなたがたに注がれる。

    【新共同訳】
    主を求める時が来た。
    ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。

  • 「主を求める時」と、主の到来によって「恵みの雨が注がれる」こととは同義です。神の霊が注がれる時に「主を求める」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)ことが可能となるのです。ホセア書では「恵みの雨が降り注がれる」ことでそれが可能となるとしていますが、エゼキエル書では「息」(「ルーアッハ」רוּחַ)によって干からびた骨が回復します(37章)。「雨」も「息」も同じく聖霊の象徴であり、真の悔い改めは聖霊による恵みのわざによってなされます。そして、「終わりの日」には必ずやそうした時が全イスラエルに訪れ、民族的回心に導かれるのです。これは神でしかなしえない奇蹟です。


2015.4.17


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