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「純化と熱意」をもたらす火

8.「純化と熱意」をもたらす火

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私たちの神の教会(Church Of God― in Anderson, Indiana)のロゴには「炎」が使われています。きよめ派、あるいはペンテコステ派と言われる流れには、「鳩」の他に、「火」を象徴する「炎」のロゴが多く見られます。

聖書箇所; マタイの福音書3章11節、使徒の働き2章3節、
詩篇51篇、レビ記6章9節

はじめに

  • 今回の「五旬節の瞑想の旅」、最終回は「火」に象徴される聖霊の働きについての瞑想です。これまでの象徴とは異なり、「火」という象徴は神の聖性(Holiness)と深くかかわっており、神の本質にふれるように思います。また「火」には、焼く(焼き尽くす)、燃やす、照らす、さばく、精錬する、きよめる、守りと導き、臨在・・といった多様なイメージを持っています。今回の瞑想では、それらすべてを取り上げて瞑想することはできませんので、今回は「火」で象徴される聖霊の多様な働きの中から二つの働き、一つは不純物を「精錬してきよめる」働き、それと、愛において、また霊において「燃やす」という働きに焦点を絞りたいと思います。
  • 五旬節(ペンテコステ)の出来事において、初代教会の弟子たちの上に「炎のような分かれた舌があらわれて、ひとりひとりの上にとどまった。」(使徒2:3)とあるように、彼らは聖霊のバプテスマを受け、また火のバプテスマを受けたことが記されています。すでに、バプテスマのヨハネが宣教していた時に、「私のあとから来られる方は、・・あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。注」(マタイ3:11、ルカ3:16)と語っていたことが、まさにペンテコストにおいて実現した(始まった)のです。


山岸登師は「マタイによる福音書註解」(エマオ出版)の中で、「聖霊と火とのバプテスマ」という箇所について、αὐτὸς ὑμᾶς βαπτίσει ἐν πνεύματι ἁγίῳ καὶ πυρί: を「聖霊によって、また火によってバプテスマする」と正確に訳すべきであるとしています。前置詞の「エン」が聖霊だけでなく、火にもかかると解釈しています。そのように訳すと、「聖霊によってバプテスマ」を授けられるということは、「火によってパプテスマ」を授けられることと同義だということになります。使徒の働きの2:3はこのことを表現しているということになります。ただ、マタイの箇所(3:11)にある「火のバプテスマ」の意味は、完全なさばきとしての火を意味します。それはまだ実現してはいないのです。今回の瞑想では、さばきとしての火ではなく、先ほど掲げた神の恩寵としての二つの聖霊の働きの面に注目したいと思います。



1. 純化させるきよめの火としての働き

  • 私たちの信仰生活においては、私たちのうちにある汚れや不義から私たちを浄化し純化させる聖霊の恩寵的な働きがあることを知らなければなりません。それはときには痛みと苦しみを伴うものですが、後になると神のきよさを身につける者となります。これは神の恩寵として神の子に与えられる聖霊による聖別の火、きよめの火と言えます。それは人間の情熱の中にさえ見られる不純物を取り除いて、純粋な情熱、神への純化された愛へと整えてくださる聖霊の火です。神に従う者はこうした「聖霊によるバプテスマ」、また「火のバプテスマ」を受けることを受け入れなければなりません。罪からきよめられる心となることを求める必要があるのです。
  • ダビデは詩篇51篇の中で、「神よ。私にきよい心を造り(バーラー)、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。・・あなたの聖霊を私から取り去らないでください。」(10節)と嘆願しています。そうでなければ、神に背く者たちに、神の道を教えて、彼らが神のもとに帰ることはないからだとしています。ダビデという人は自分が「咎ある者として生まれ、罪ある者」であることを認めていますが、この認罪と悔い改めへの導きこそ聖霊の働きです。
  • 現代の女預言者であるM・バジレア・シュリンクは、『変えられたいあなたに』という本の中で、知らず知らずのうちに私たちの内側に侵入し、罪を通して暗やみの砦を築こうとするサタンの働きを発見し、告白して勝利するよう呼びかけています。神の御旨は私たちが聖いものとなることです。そのために聖霊は私たちに深くかかわってくださろうとしています。ですから、私たちは聖霊に導かれて歩まなければ勝利はありません。私たちの態度や思い、口、心のすべての領域において、きよめてくださる聖霊の助けがすでに備えられているのです。

    (1) 態度の罪
    無責任、怒り、虚栄心、自己中心、自己正当化、わがまま、権力欲・支配欲、迎合、詮索、傲慢、多忙、短気、立腹、いらだち、反抗、卑怯、なまぬるさ、無気力・・・など。

    (2) 思いの罪
    隠し事、思い煩い、嫉妬、自己憐憫、神経過敏、尊敬の念の欠如、貪欲、肉欲、人の関心や認められたいという思い、さげすみ、苦々しい思い、落胆、空想・・など。

    (3) 口の罪
    おしゃべり、口論、中傷、人への悪口、批判、さばき・・など。

  • 以上のリストの中には、一見、罪と思えないものも取り上げています。たとえば「おしゃべり」、「詮索すること」、「空想にふけること」、「無気力」などです。シェリンク女史なぜそれが罪なのかを本の中ではっきりと説明していますが、本来、私たちが聖霊に導かれて歩むならば、聖霊が教えてくれるはずのものだと言えます。
  • 預言者イザヤが神殿において神を見る経験をしたとき、自分のくちびるが汚れていることを示されました(6章)。それまでも彼は預言者として立ち、神の民に対して「わざわいだ!」と繰り返し叫んでいました(5:8, 11, 18, 20,21,22)。しかし彼が神を見たときに、むしろ自分こそわざわいな者であること、「くちびるの汚れた者」であることに気づかされたのです。くちびる汚れは、その人の全存在の汚れと関連があります。イザヤは神の聖にふれたときに自分の汚れに気づかされました。神は自分の汚れに気づいたイザヤに対して、祭壇の上にあった燃えさかる炭をもって彼のくちびるに触れました。その結果、彼の不義は取り去られました。それから彼の生き方が変わったのです。別のことばを使うならば「きよめられた」のです。そしてその「きよめ」のひとつの現われは、神のメッセージを聞いても悟ることのないかたくなな民に対して語り続けるという、まことに困難な働きに全生涯を費やしたことに見ることができます。イザヤは6章において聖霊のパプテスマ、また火によるバプテスマを受けたと言えます。
  • 詩篇66篇の作者が「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。・・・私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」(9,12節)と神に感謝しているように、精錬・純化させる火による「きよめ」の恵みは聖書全体において見ることができます。神に用いられた多くの器はみな火のパプテスマを受けているのです。
  • 「練られている」と訳されたヘブル語は「ツァーラフ」צָרַף(tsaraph)。旧約で34回、詩篇では7回です。神にも、人にも使われますが、「練る、精錬する、ためす、調べる、試みる」といった意味です。この動詞が最初に登場するのは士師記7章4節で、神がミデアン人との戦いにおいて神の民を選抜しようとして3万2千の民を試されました。まず「恐れている者たち」2万2千人を帰らせました。さらに水を飲む飲み方によってためし、結局3百人を残しました。その3百人とは臨戦態勢を常に崩さずに水を飲んだ者たちでした。神はその3百人の者たちを用いてミデアンの大軍を倒したのでした。
  • 主の弟子たちはみな特別な聖霊の精錬を受けた者たちでした。特に、神から特別にためされたペテロがいます。彼は特別に神に愛された者ですが、生来の弱さを十分にもっていました。そうした彼の弱さに気づかせるための精錬が必要でした。精錬の工程や内容は人によって異なりますが、その目的はみな同じです。
  • 聖書には主の弟子たちを、神の人として磨くための火の精錬をくぐりぬけることを願っています。それによって信仰は試され、純化されるからです。ダニエル書の三人の若者―シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴーも火の中をくぐらせられた話は有名です。彼らはバビロンにおいて有能な青年ユダヤ人たちでしたが、ネブカデネザル王の建てた金の像を拝まないということで、火の燃える炉の中に投げ込まれようとされます。(ダニエル3章)。しかし彼らは「たとえ、神が自分たちを救い出さなくとも偶像の神々に仕えず、金の像を拝むこともしません。」と断言しました。ネブカデネザル王はこれに怒りを燃やし、炉を普通の七倍に熱くせよと命じ、火の燃える炉に彼らを投げ込むよう命じました。結果は如何に。面白いことに、三人の青年を炉に入れようとした者たちはその火炎で焼け死にましたが、三人の青年は焼け死ぬどころか、炉から出て来た時には、頭の毛も焦げることなく、上着も以前と変りなく、火の臭いもしませんでした。彼らは以前にもましてその国で栄える者となったのです。
  • この話は事実だと信じますが、同時にきわめて比喩的です。なぜなら信仰は火によってためされるからです。使徒ペテロは「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(ペテロ第一、1:7)と、迫害にあって離散している神の民に対して語っています。聖霊は神のよしとされるところと時において私たちを精錬します。しかしそれが耐えられないものではないことも主は約束しておられます。
  • ペテロの場合には、サタンが彼を(他の弟子たちも)ふるいにかけることを神に願って聞き届けられました(ルカ22:31)。もしこのとき、主がとりなしてくれていなかったらどうなっていたことか。サタンは弟子たちをふるいにかけて神から引き離そうと企んだのですが、その企みは実現しませんでした。主が信仰がなくならないように祈ってくださっておられたからです。しかも主イエスはペテロに、「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:33)とまで言われたのです。なんと配慮の行き届いた主のことばでしょうか。そんなことも知らずにペテロは自分の本当の弱さを知らずにいたのです。それゆえにペテロが主を拒み裏切ったとしても、それを通して彼は彼のうちにある大言壮語という罪から解放され、きよめられたのです。それ以来彼は「自分だけは大丈夫だ」と誇ることをしなくなりました。精錬されてきよめられたからです。聖霊による浄化、純化の恵みにペテロはあずかったからです。
  • 私もペテロと同様の罪を犯しました。主を裏切ったのです。しかし主のあわれみにすがりついて祈ったとき、ルカ22:32の主のことばが心にしみる経験をいたしました。私もダビデのように祈ります。「神よ。私にきよい心を造り(バーラー)、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。・・あなたの聖霊を私から取り去らないでください。」と。

2. 霊を燃やし続ける火としての働き

  • 使徒パウロはロマ書12章で、主に対する愛に基づく献身の在り方を語っていますが、その中の11節でパウロはこう言っています。

    【新改訳】
    「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えよ。」
    【新共同訳】
    「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」
    【フランシスコ会訳】
    「熱心でたゆまず、心を燃やし、主に仕え・・(なさい)」
    【岩波訳】
    「熱心さにおいて遅れをとらぬ者(となり)、霊において熱くなり、主に隷従し、」
    【柳生訳】
    「怠ることなく熱心に努め励み、燃える霊をもって主に仕え」
    【エマオ訳】
    「熱心の点では、臆することなく、霊に関しては熱く燃え続け、主に仕え続けなさい。」

  • 「霊に燃え」「霊に関しては熱く燃え続け」という「燃える、熱く燃え続ける」と訳されたギリシャ語は「ゼオー」ζέωで、本来、煮えたぎる、沸騰する、熱烈である、燃えているという意味です。ここと使徒18:25の2箇所に使われています。パウロは「霊において熱く燃え続けながら主に仕える」ことを進めています。使徒18:25では雄弁なアポロが霊に燃えていたが、聖霊のバプテスマについては知りませんでした。そこでプリスキラとアクラは彼を招き入れて、神の道を一層正確に説明しました。すると彼は、より強い語調で、イエスがキリストであることを聖書によって論証し、ユダヤ人たちを徹底的に論破したのでした。心が燃えていても、それが正確な知識に裏打ちされていなければなりません。感情と知性、体験と神学のバランスが重要です。
  • ところで、「熱意」がねじ曲がるとユダヤの指導者たちのように「ねたみ」に変わります。指導者たちはみなイエスの弟子たちが、大勢の人々をいやしているのを見て、「ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえて留置場に入れました。そして彼らをむちで打ち、イエスの御名によって語ってはならないと言い渡したのです」(使徒5章17, 18, 40節)
  • また、武力によってローマと戦おうとした熱心党員の人々は「ゼオー」ζέωの名詞化された形容詞「ゼーローテース」ζηλωτήςと呼ばれていますが、彼らも対抗心という人間的な熱意に捕らえられいました。
  • 「熱意」は、聖霊の火によってきよめられる必要があります。パウロもイエスに出会うまでは間違った熱意をもってキリスト者たちを迫害しました。しかし彼が聖霊のバプテスマを受けて、聖霊に満たされたとき、彼の熱意はきよめられ、聖なる熱意と変えられました。そのようにして彼は生涯、主に仕えたのでした。
  • 神に対する「熱意」は主の救いの道を教える立場にある者にとってはきわめて大切な賜物です。霊が燃やされるということは聖霊の働きの何ものでもありません。「熱意」は電流のように人から人へ、言葉よりもはるかに早く伝わります。周囲に働きかける「熱意」こそリーダーシップの秘訣と言えないでしょうか。
  • 「熱意」はみせかけやまねごとでは続きません。神のために打ち込む熱意は神から与えられた一つの賜物です。自分の中に「熱意」が生まれるとき、新しい人生が始まります。「熱意」が自分の中に渦巻くとき、新しい自分を発見するはずです。「熱意」は私たちの前に横たわる障害物を乗り越えさせるダイナミックな力です。
  • 主に仕える祭司たちに対する主の命令として、「全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない」(レビ記 6:9)とあります。新約時代に生きる私たちも、主に仕える祭司として、自分を祭壇の上に置いて、聖霊の火で絶えず燃え続ける者とならなければなりません。聖霊はそのことを私たちのうちになしてくださるお方なのです。


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