****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「理解の型紙」を疑ってみる

「理解の型紙」を疑ってみる


  • 図書館で「疑う技術」(藤沢晃治著、PHP新書、2006)という本を見つけました。この本の中に「『理解の型紙』を疑ってみる」という見出しがあり、共感すべきことが多くありました。その本の中から少し抜粋してみたいと思います。
  • 私たちは物事を理解しようとするとき、できるだけスピーディーに理解するため、何らかの仮説を立てながら理解しようとします。過去の経験に似たようなことがあると、それを脳内の辞書から引っ張り出してきて、「これに近いのではないか」「こういうことではないか」と無意識のうちに仮説を立てて、理解のスピードを速めようとしています。私は、こうした過去の体験に基づく仮説を「理解の型紙」と呼んでいます。・・型紙を当てはめると、物事を理解するときにとても便利です。・・深く考える必要がなく、思考の節約ができるからです。・・しかし、行き過ぎて何でも「理解の型紙」に頼ってしまうと、誤解を生むこともあります。簡単な言葉で言えば、思い込み、色眼鏡、固定観念、偏見です。自分の「理解の型紙」を通して物事を見てしまうので、勝手な解釈をしてしまうのです。
  • 確かに、私たちはこの著者が言うように、「理解の型紙」によって、思い込みによる誤った判断を知らずにしてしまうことが多いのではないかと思います。信仰の世界でもこのことは起こり得ます。自分のうちにあるこの「理解の型紙」が本当に適切かどうか、疑う力が必要なのです。
  • 教会で共に聖書を学ぶ時にも、できるだけ「理解の型紙」を破るために、各自、突っ込みを入れてもらうようにしています。つまり、自分から、これはどういう意味かという疑問を呼び起こし、出てくる答えに対しても、さらに、本当にそうだろうかと「突っ込み」を入れます。「突っ込み」を入れることで、思ってもみなかった新しい理解に導かれることがしばしばあるのです。「突っ込む」ことがなければ知り得なかった知る喜びを重ねることで、聖書を読む力が養われます。
  • 真理を追求する人は、人一倍、疑う技術を身につけているのかもしれません。これまで教えられてきたこと、あるいは、通説になっていることさえも、一度は疑って「突っ込み」を入れてみる必要があるのではないかと思います。
  • 常日頃、信じることの大切さを心に銘記していますが、同時に、様々な情報を疑ってみることの大切さも感じています。なぜなら、「疑う」ことは「自分で、もう一度よく考え直してみる」ことであり、「再考する力」を養うからです。このことが、信仰における主体性、自立性を育てていくのだと信じます。

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