****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「残りの者」のダイナミズム

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6. 「残りの者」のダイナミズム

【聖書箇所】11章1~15節

ベレーシート

  • ローマ書で語られていることはきわめて単純ですが、パウロが旧約を引用して論を進めるために、異邦人である私たち、あるいは旧約聖書に慣れていない者にとっては戸惑ってしまいます。ローマ書のメッセージの核心は、「信仰による神の義」です。イスラエル(ユダヤ人)は行いによって神の義を得ようとしたために、それに到達できず、獲得できていないのです。10章では「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによる」ことが語られました。そこでパウロは、このところから、「私は尋ねます」「私は質問します」「私は言います」とも訳される対話的手法によって、イスラエルの民の問題をより深い理解へと導こうとしているのです。ちなみに、その流れを確認しておくと以下のようになります。

(1) 10章18節
「では、私は尋ねます。」(「アッラ・レゴー」ἀλλὰ λέγω)
「彼らは(キリストについてのみことばを)聞かなかったのでしょうか。」
「そうではありません。」
彼らは聞こえていたのです。


(2) 10章19節
「さらに、私は尋ねます。」(「アッラ・レゴー」ἀλλὰ λέγω)
「イスラエルは(キリストのことばを)知らなかったのでしょうか。」
「そうではありません。」
彼らは知っていたのです。


(3) 11章1節
「それでは、私は尋ねます。」(「レゴー・ウーン」λέγω οὖν)  
「神はご自分の民を退けてしまわれたのでしょうか。」
「とんでもない(絶対にそんなことはありません、断じてそうではない)」(「メー・ゲノイト」μή γίνομαι)
2節「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けません。」


(4) 11章11節
「それでは、私は尋ねます。」(「レゴー・ウーン」λέγω οὖν)  
「彼らがつまずいたのは倒れるためだったのでしょうか。」
「とんでもない(絶対にそんなことはありません、断じてそうではない)」(「メー・ゲノイト」μή γίνομαι)
「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こせるためです。」


●「ねたみを起こさせる」の部分を、新共同訳は「奮起させる」と訳しています。キリストの十字架はユダヤ人にとってはつまずきでした。尤も、ユダヤ人たちは自分たちがつまずいたとも、自分たちが神を拒絶したがゆえにみじめな状態にあるとも思っていません。しかしこのつまずきがあったがゆえに、福音は拡大し異邦人に宣べ伝えられたのです。ユダヤ人の拒絶や罪過が異邦人に救いを開くことになったのです。ですから、ユダヤ人にはまだ希望は残っているのです。


1. 恵みの選びによって「残された者」

  • ローマ書11章には二つの重要な思想があります。一つは5節にある「今も、恵みの選びによって残された者」(新改訳)がいるということ。「残された者」を英語では「レムナント」と言います。ギリシア語では「レイッマ」(λειμμα)、ヘブル語では「シェエーリート」(שְׁאֵרִית)と表現されます。
  • もう一つは、「接ぎ木思想」です。尤も、「接ぎ木する」「接ぎ木される」と訳しているのは新共同訳ですが、新改訳では「つがれる」「つぎ合わされる」と訳しています。そこでのたとえがオリーブの木であることから、「接ぎ木」という訳語がイメージとして分かりやすいように思います。17, 19, 23, 24節に6回使われています(すべて動詞)。この「接ぎ木思想」については、次回の瞑想でふれることにします。

「今も、恵みの選びによって残された者」(新改訳)
「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」(新共同訳)


●「今も」「現に今も」とは、イスラエルの「残された者」は過去にもいたことを物語っています。11章でその例が挙げられています。それは預言者エリヤです(11:2~4)。エリヤは以下のように神に訴えています。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。」(Ⅰ列王記19:10、ローマ11:3)。それに対する神の答えは、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」(Ⅰ列王記19:18、ローマ11:4)です。

3節の「残された」は、ギリシア語で「ヒュポレイポー」(ὑπολείπω)で、アオリスト受動1人称単数。
4節の「残してある」は、ギリシア語で「カタレイポー」(καταλείπω)で、アオリスト能動1人称単数。


  • 上記の「残された」「残してある」は同じ意味のように見えますが、微妙に異なっています。どのように異なっているのかと言えば、前者の「ヒュポレイポー」(ὑπολείπω)は、ヘブル語の「ヤータル」(יָתַר)の訳語で、「滅びないで残ったわずかなものが無意味になってしまっていること」を意味します。一方、
  • 後者の「カタレイポー」(καταλείπω)は、ヘブル語の「シャーアル」(שָׁאַר)の訳語で、「神にとって、あるもののうち、残ったものは価値があり、希望があること」を意味します。つまり、「残った者」によって神のご計画やみこころが成し遂げられていくことを意味しています。「バアルにひざをかがめなかった七千人」はその意味での「残された者」と言えます。ちなみに、「シャーアル」(שָׁאַר)の初出箇所は創世記7章23節で、「主は地上のすべての生き物を・・消し去った。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」とあります。ノアとその家族が「残された者」であり、救いにあずかった者たちによって、神のご計画が進んで行きます。
  • ノアの家族はみなその行いがすばらしかったのではなく、神の恵みと選びによって「残された者」であったのです。ノアの後(10代目)に登場するイスラエルの先祖のアブラハムも「不敬虔な者」であったのですが(ローマ4:5)、信仰によって義とされた「残りの者」なのです。ちなみに、彼の父テラは「偽りの神々」を信じていました。このようにして昔から、そして今も、神の「恵みと選びによる残された者」がいるのです。

2. 「残りの者」という思想

  • 「残りの者」「残された者」という用語は、あくまでもイスラエルの民に対して使われます。異邦人に対しては使われません。新約時代において、「恵みと選びによって残された者」と「異邦人の信者」が組み合わさったのが「教会」です。教会が携挙された後の地上には、イェシュアをメシアと信じておらず、単なる「恵みと選びによって残される者」もいます。それは患難時代において反キリストにひざをかがめない十四万四千人と呼ばれるイスラエルの民です(黙示録7:4)。苦難を通させられた彼らは、メシアの再臨の前に「恵みと哀願の霊」を注がれて、イェシュアがメシアであると信じる時が来ます。その後の喜びは私たちの想像をはるかに越えた爆発的ものとなります。さらには、世界の四方からイスラエルの民もエルサレムに集められます。「残りの者」も「かたくなな者」も、異邦人も巻き込んだ神の「家」建設のご計画を実現する上において、絶妙なダイナミズムを繰り広げるのです。このことが11章11~15節で展開されています。

3. イスラエルの完成は、死者の中から生き返ることに等しい

  • 使徒パウロは異邦人に対してこう語っています。

    【新改訳改訂第3版】ローマ書11章12、15節
    12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
    15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。

  • 神には私たちの思いを越えたご計画があります。それは「彼らがつまずいた」のは「救いが異邦人に及ぶため」であり、イスラエルにねたみを起こさせる(奮起させる)ためです。確かに、イスラエルの違反は異邦人にとって大きな霊的な富をもたらしました。それはまさにイェシュアの言われた「あとの者が先になり、先の者があとになる」(マタイ20:16)ということが起こった状態です。しかし神のご計画では、この逆転も、やがては再逆転となるのです。
  • 今日においても、神の民であるイスラエル(ユダヤ人)は見捨てられておらず、彼らは滅びることなく不思議と存在し続けています。なぜなら、彼らは神のご計画において最後の最後に救われなければならないからです。人間的には実現不可能のように思われたとしても、彼らは再び神によって回復させられるのです。パウロはそれを「死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」と述べています。
  • キリストを拒絶したイスラエル(ユダヤ人)は完全に「死んだ」状態にあります。しかしこの「死んだ」状態にある彼らが神の息によって再び生き返るのです。このことを預言したのがエゼキエルです。有名な「枯れた骨のヴィジョン」です。このヴィジョンは、宣教におけるリバイバルの約束では決してありません。文字通り、「イスラエル全家の回復の預言」として理解しなければなりません。そうでないと、私たちは神のご計画に対して「的を外した」理解をし、「的を外した」働きをしてしまいます。これが聖書が意味する「罪」(ギリシア語は「ハマルティア」ἁμαρτία、ヘブル語は「ハターアー」חֲטָאָה)なのです。

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書37章1~14節
1 【主】の御手が私の上にあり、【主】の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。
5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが【主】であることを知ろう。」
7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。
12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが【主】であることを知ろう。
14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、【主】であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。──【主】の御告げ──」


2017.7.21


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