****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「新しい歌」の背景を知ること

49. 「新しい歌」の背景を知ること

  • 教会における礼拝での賛美の位置付けが、ある時を境に全く変わりました。その境とは今から14年前のこと、私がダビデの目指した賛美礼拝に目が開かれた時からです。それ以来、詩篇の見方も読み方も変わりました。礼拝に対する備えも変わりました。賛美と説教が同じレベルで準備するようになりました。それまでは賛美はほとんどおざなりで、説教こそ礼拝の中心だと考えていました。それが賛美も説教と同じレベルという位置付けをするようになったのです。賛美は複数の楽器を伴うため、その練習に多くの時間を費やすようになりました。はじめはそれに耐えられずに涙を流す者もおりました。しかし練習の甲斐あって、次第に礼拝が受身ではなく、アクティブなものへと変わりました。
  • 私は小学生から音楽が好きで、ピアノ(当時はオルガン)を習い、音楽大学まで行きましたが、そうした賜物がより生かされるようになりました。今ではピアノを弾きながら賛美を歌い、祈り、かつ賛美をリードしているのです。しかしこのような賛美がささげられるようになった直接の要因は、単に、私が音楽が好きだったからではありません。 私のうちに大きな失意落胆があったからでした。開拓伝道がスタートして3年目、私は信仰的に行き詰まりの状態に陥っていました。大きなうめきと渇きの中から、神に力を尽くして賛美する礼拝に目が開かれたのです。賛美は私にとって「新しい歌」となりました。礼拝のスタイルも徐々に改革され、より自由な礼拝となりました。賛美することで神に対する心の扉が開かれるようになったのです。
  • 詩篇40篇3節に「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」とあります。賛美は神が私たちに授けてくれる不思議なものです。この3節の前の節には「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私はを滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」という告白が記されています。まさに賛美の源泉はここにあります。私たちの努力や頑張りでパフォーマンスすることはできます。しかし、生きた神への賛美をささげることはできないのです。失敗、失意落胆、苦難、閉塞、屈辱、敗北・・・といった十字架の経験は、神の恵みへの道を開かせます。詩篇で呼びかけられ、ささげられている賛美の背景には、こうした神の民の受難の経験があることを心にいつも留めておきましょう。そのような視点から読むことは、神の約束や恵み(constant love)がいかにいい加減なものでないかを確信されることでしょう。

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