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「恐れを締め出す道」(創世記32章のヤコブのペニエル経験から)

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「恐れを締め出す道」(創世記32章のヤコブのペニエル経験から)


はじめに

  • ヤコブという人物に焦点を当てながら、私たちの心の奥深くにある「恐れ」という問題について考えてみたいと思います。
  • 「恐れる」という場合、神に対する「聖なる恐れ」もあれば、神や人に対する恐怖心を意味する「恐れ」もあります。前者の「恐れ」は、神を畏敬するという意味がありますが、それだけではありません。神を恐れた人物のひとりとしてアブラハムがおります。彼が神の言われる通りに愛するひとり子イサクをモリヤの山で神にささげようとしましたが、それは彼が神を恐れていたからだと主の使いは言っています。このように、聖書は人間には全く不条理にしか思えないことを、全幅の信頼をもって従うということが「神を恐れる」ことであり、人生の知恵の初め(基本)だとしています。
  • 後者の「恐れ」は、人間の深い内面にあって人の思考や行動を引き起こさせる源泉となっている感情です。普通、それに類する多くの表現と密接なかかわりを持っています。たとえば、恐怖感、罪責感、不安、心配、不信、疑心暗鬼、疎外感、無力感、愚かな決断・・などと関係しています。私たちのすべての心の考え、すべての行動の多くはこの「恐れ」という感情によって支配されていることが多いのです。果たして<その「恐れ」から解放される道はあるのかについて考えてみたいと思います。

1. 恐れに対処しようとするヤコブの画策

(1) 旅を続けるヤコブ

  • 1節を見ましょう。「さてヤコブが旅を続けていると」とあります。旅を続けているヤコブがおります。どんな旅を続けているのでしょう。それはヤコブの一人旅ではありません。ヤコブとその一行が旅を続けているのです。その一行とは、ヤコブとその家族(二人の妻とその女奴隷、それらから生まれた11人の息子たち、そして数人の娘たち)、および、多くの家畜(牛、ろば、羊)その数、何千頭にも及ぶ大変な数です。ですから、それを世話をしたりする大勢の男女奴隷たちも一緒でした。
  • 20年前、ヤコブは生まれ故郷を後にして、自分の母の兄のいるパダン・アラムというところへ行ったのです。そのとき彼が持っていたのは杖一本だけでした。しかし、20年の歳月を経て、ヤコブは多くの家族と多くの財産を持って、自分の故郷に帰る旅をしていたのです。
  • 1節の後半を見ると、その旅の途中で彼は神の御使いの姿を見せられます。つまり、彼の旅を見守っている御使いの群れです。ヤコブはそれを見た時、「ここは神の陣営だ」と言って、「マハナイム」מַחֲנָיִםと呼びました。20年前にも、つまり、ヤコブが自分の故郷を離れてはじめてひとり寂しく旅を続けていたある夜、石を枕にして寝ていた時、彼は夢を見ますが、その夢とは、一つの梯子が地に向けられて立てられている不思議な夢でした。そしてその梯子を神の御使いたちが上り下りしている夢でした。そこで主がヤコブの傍らに立って、ヤコブに個人的に語られたことがありました。ですから、今ここでも神の御使いたちをヤコブが見た時、神が自分と共におられることを感じていたことと思います。「マハナイム」の原意は「二つの陣営」という意味です。神はヤコブの目を開いて、神の御使いがヤコブと共にいることを、共に旅路を歩いていることを見せられたのです。神の保護があることをヤコブに確信させたのです。神の使い、御使いたちによって守られているとはなんとすばらしいことでしょうか。
  • しかし、そのような神の保護があることを示されながらも、ヤコブにはまだまだ信仰者として取り扱われなければならない面があったのです。それが32章に記されているのです。

(2) エサウとの再会の準備

  • ヤコブには自分の故郷に帰るに当たって気がかりなことが一つありました。それはどうしても兄のエサウに会わなければならないということでした。エサウとヤコブは双児の兄弟です。エサウは兄、ヤコブは弟です。そもそもヤコブが叔父のいるところに行ったのも、20年前、兄のエサウに与えられている長子の権利を父を騙して奪ったからでした。兄エサウの怒りと復讐を恐れて、逃げるようにして故郷を後にしたのです。そのことがどうしても気がかりだったのです。兄は今もそのことを根に持っていないだろうか、自分が今帰ったとしたら、どのように迎えてくれるのだろうか、とても心配だったのです。そこでヤコブは使いの者たちをエサウのところに、自分が帰ることを知らせたるために前もって送ったのです。
  • その知らせの内容が4~5節に記されています。この箇所をリビング・バイブルで読んでみます。

    「兄さん、おひさしぶりです。 ヤコブです。長いことごぶさたしましたが、お変わりありませんか。 私は最近までラバン伯父さんのもとに身を寄せていました。ようやく、牛やろばや羊や奴隷を持てるようになったので、帰国することにしたのです。 だれよりもまず兄さんに、そのことをお知らせいたします。どうか快く迎えてくださいますように。」

  • そして、使いの者が帰ってきてヤコブに報告しました。

    32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」
    32:7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。

  • ヤコブは「非常に恐れ、心配した」とあります。ここをいろいろな聖書の翻訳を見比べてみましょう。

    画像の説明

  • これらの訳をみるならば、「恐れ」というものが何をその人に引き起こすかがよく分かります。人が「恐れ」に陥ると、心配のあまり寝込んだり、病気になったりすることもあります。人と顔を合わせる事ができず、引きこもったり、うつになったりすることもあるのです。しかし多くは、心配のあまり、自分からなんとか手を打とうとし始めることが多いものなのです。ヤコブがそうだったのです。

(3) 計算しながら祈っている(あるいは、祈りながら計算している)

  • ヤコブは「エサウが400人の手下を引き連れて、迎えに来る」という報告を聞いたとき、彼は自分勝手に復讐されると思い込んだのです。そこで彼は気が動転しながら、思い悩んだ末に窮余の策を練りました。  その策とは、一行を二つに分けるということです。そうすれば、もしエサウが来て一方に攻撃をしかけてきたとしても、もう一方はなんとか助かるに違いないと考えたのです。
  • このようにして、ヤコブとしてはやるだけのことをしながら、神に祈り始めたのです。助かる方法を自分で考えながら、神に祈っているのです。「どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。」(11節)
  • 先程、2節でヤコブは「神の陣営」を見せられたにもかかわらず、それがここでは吹き飛んでしまっています。それほどに、「恐れ」は、私たちの心を風に揺れる木々のように揺れ動かしてしまう力をもっているのです。ひとたび、心に「恐れ」が起こると信仰の力は喪失します。神の守りがあることなど、すっかり忘れてしまい、動揺するのです。
  • 一方では自分でなんとかしようとし、一方では神の助けを求めているのです。私たちはどうでしょうか。ヤコブだけのことでしょうか。多くのクリスチャンがこのような状態ではないかと思うのです。現実の問題は問題として自分でなんとかしようと画策しながら、一方で神に助けを求めている。これは本当に神を信頼することでしょうか。神に頼るとはこういうレベルのことでしょうか。もし、私たちが自分でなんとかしようと試みている限りは、恐れから解放されることは決してないのです。決して安心することはできないのです。でも、困難に直面する時、窮地に陥ったと感じるとき、神を信頼することができずに、自分でなんとかしようとしてしまうのです。これがヤコブでした。
  • ヤコブの恐れから来る画策は、兄エサウに贈り物を用意するという形となりました。神に祈ったにもかかわらず、ヤコブの心には平安がないので、不安な気持ちを埋めるために、せっせと自分でなんとかしようとしているのです。
    ヤコブはエサウに送る家畜総数として550頭あまりを選び出して、それを三つの群れに分けて、それをそれぞれのしもべたちの手に渡し、進むようにせました。そして先頭の者にこういったのです。「もし私の兄エサウがあなたに会い、「あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれのものはだれのものか」と言って尋ねたなら、「あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼(ヤコブ)もまた、私たちのうしろにおります」と答えるように指示しています。第二の群れの者にも、第三の群れの者にも、同じ事を指示しました。その意図するところは、自分より先に行く贈り物によって、彼(エサウ)をなだめようとするものでした。こうすれば、いくら兄でも手荒なことはしないだろうとヤコブは考えたのです。そして、そのようにしたのです。
  • ところが、やはり心配で眠れないのです。まだ夜中だというのに、彼は起き出して、二人の妻と二人のそばめ、そして11人の息子たちを起こして、持ち物をすべて持たせてヨルダン川を渡らせました。そしてヤコブは一人きりになったのです。なぜそうしたのかよく分かりません。しかし、ともかくヤコブが一人だけ残ったのです。ヤコブが一人きりになったそのとき、そこへ一人の人が現われます。そして夜明けまでヤコブと格闘したのでした。

(4) ヤコブと格闘する神

  • 「格闘した」と訳されたヘブル語は「アーバク」(אָבַק)で「組み打ちする、組み討ち」という意味です。「角力(すもう)をとった」とも訳されます(関根訳)。ここでは神の方からヤコブと格闘するため、角力をとるため、組み討ちするために来たということです。
  • 「格闘する、組み打ちする、角力をとる」ということは、相手を倒して打ち負かすことです。あるいは、相手の力を失わせて倒して動けないようにすることです。神はヤコブをそのように打ち倒して、打ち負かして自分の下に服させようとしたのですが、ヤコブの力があまりに強くてその人は勝てなかったとあります。
  • 神から遣わされた人がヤコブに勝てなかったということはどういうことでしょうか。それは、神に頼ることなく、自分で一生懸命なにをしようとしているときには、自分で計算しているときは、神は勝つことができない、神の支配下に置くことができないということです。神の支配下に置くとは、神がすべてのことをしくださるということなのですが、そのように神に頼らないで、自分の力でしようとする者に対しては、神はどうすることもできないということです。特に、ヤコブの場合は、神に助けを求めながら、自分でいろいろと画策して自分を守ろうとしているのですから、なおさら神はヤコブに勝てないのです。
  • ヤコブはこれまで決して人との争いや戦いにおいても打ち負かされたことがありませんでした。そして今、エサウが迎えに来ると聞いて、心では大いに恐れて、神に祈っているにもかかわらず、一方ではやはり今までのように自分の知恵ややり方を頑としてもっているのです。そのようにヤコブは自分でなんとかしようとしているのですから、神とて手を貸すことができないという有様だったのです。神はヤコブの祈りに応えて助けようとしているのですが、当のヤコブは神に頼るようで頼らないというあり方をしていたのです。
  • そこで!!! 神も窮余の策を講じたのです。神はヤコブのもものつがいに触れられたのです。そしてもものつがいをはずされたのです。神はついにヤコブをそのようにして打ち伏せたのです。「もものつがい」―腰の部分で人の最も力の中心点を意味します。神はヤコブの力の中心であるもものつがいを打つことによって、ヤコブをねじ伏せたのです。
  • 人にはそれぞれ自分が依存している部分があるのです。神様にもふれてほしくない頑固な部分があるのです。そこは自分で支配しておきたい部分なのです。ヤコブの場合、それは自分の知恵でした。神が守っていてくださると頭では知っていても、神にすべてをまかせることはできないという頑固な心を持っていたのです。自分でなんとかするという生き方をこれまでもしてきて、それでなんとか切り抜けてきたという自負があったからです。
  • ここでもヤコブはなんとか贈り物をするという方法で兄エサウをなだめることができると彼は考えたのです。そして細かな指示をしもべたちに出しています。今まではそれで上手くやって来たのです。ところが今回は、それでも恐れが消えない。心配でたまらない。心に平安がない。確信がない。安心がない。不安だ。だから、なんとかしようとして・・と、意味もなく、夜の夜中に家族を起こして川をわたらせるというようなことまでさせているのです。
  • そのような彼のところに、神の人が彼を組み倒そうとして来たのです。これは神の恩寵的取り扱いです。少々乱暴な形ですが、ヤコブをびっこにされることによって、彼の生来の力を削いで、神に頼るようにさせたのです。どのように神に頼るようにさせたかといえば、26節のヤコブのことばです。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」―ここでは逆にもものつがいがはずされたことで、ヤコブが神にしがみついているのです。恐れがもたらす様々な心配、思い煩いに打ち勝つことのできない真の原因は、ヤコブが神に信頼できないという問題だったということが明らかにされたのです。問題の根はヤコブ自身にあったのです。そのことに気づかされた経験が、ヤコブのペニエル経験と呼ばれるものでした。これはヤコブだけでなく、同じく、あらゆる問題の根は私たちにあるのです。そのことを知ることが、私たちのペニエル経験でなければなりません。

2. 「恐れ」に打ち勝つ唯一の道は、神に信頼して明け渡すこと

  • 私たちは様々な恐れに翻弄されることがあります。「恐れ」は以下の図にあるようにさまざまな仲間たちがいます。
fear
  • たとえば、私たちが人を恐れるとどうなるでしょうか。気に入られるような言動をして、なんとか受け入れられようとします。そのためにたえず不安や疑心を抱くようになります。
    「受け入れてくれなかったらどうしよう。嫌われたらどうしよう。自分はやがて一人ぼっちなってしまうのではないか。だれも私の存在を認めてくれないのではないか、あの人は私の悪いところを皆に言いふらしているかもしれない・・・・。
  • 不幸な事態を恐れるとどうなるでしょう。
    「私は将来、幸せになれなのではないか。自分には能力がないかもしれない。何をしてもできないのではないか、努力しても結局はむだかも知れない。将来、結婚出来ないかも、お金がなくなったらどうしよう。病気(癌)になったどうしよう。失敗したらどうしよう。リストラされたらどうしよう。事業が失敗したらどうしよう・・。
  • このようなあらゆる種類の心配、思い煩いは風邪をひくような者で、人間であればだれでもかかるものです。しかしその程度がある限度を越えてしまうと、心の病気になったり、生きる力を失わせたりして、やがては自分でどうすることもできないと絶望して死を選ぶ者になってしまうのです。今、日本で自殺する人の数は自殺とわかっているだけでも、その数毎年3万人を下らないのです。これは深刻な問題です。
  • そもそも人が心に恐れを持つようになったのは、人が神のことばを信ぜず、サタンの声に聞きしたがってしまってからのことです。サタンが神のことばを疑わせるようにして、自分のことばを信じさせ、取ってたべてはならない木から実をとって食べたその時から、人は「恐れ」をいだくようになったのです。罪を犯したアダムとエバが、そよ風の吹くころ、エデンの園の歩き回られる主の声を聞いた時、二人は主の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。主は人に呼びかけて言われました。「あなたは、どこにいるのか。」と。するとアダムは「私は園で、あなたの声を聞きましたが、自分が裸なので、恐れて隠れました。」と応えました。すると神は「あなたが裸であるのをだれが教えたのか。あなたは食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と追求しました。神は恐れの根拠、その理由を追求されました。すると、彼はあなたがた私のためにくださったこの女が私をそそのかしたのですと、その追求をかせして責任を自分の妻に転嫁しました。そのようにして、神の言葉を疑い、神への不信をもって行動したときから、安心を失い、自分が裸であることを知り、それを隠し、自分を自分で守ろうとするあり方へ転落してしまったのです。
  • そのような人間が、再び、エデンの園で経験した安心、恐れなき生活をするためには、もう一度、神に立ち返る必要があるのです。そして神の声を聞き、神の約束を信じ、神の愛の中に生かされる経験が必要なのです。人が「恐れ」に囚われる時、そこには真の安心がありません。そのためにそれを自分でなんとかしようとするのですが、すればすれほど不安が心を支配するものなのです。成功した事業家といえども、自分が築きあげようとしたものが崩れることを何よりも心配して恐れて生きることになるのです。
  • この世で成功していると思われる人の心には、多くの不安や心配や一時も休まることのない心があるのです。それはまさにヤコブのようです。この恐れから私たちが解放される道は一つしかありません。それは神に立ち返り、神の前に自分の重荷を下ろすこと、そしてどんな状況にあっても揺れ動くことのない心を持つために、神を信頼して生きることです。神を信頼するとは、神と神の約束のことばの中に自分の身を置くことです。

3. 「恐れ」に打ち勝つひとつの提言(イザヤ書30章15節のみことば)

【新改訳改訂第3版】
イザ 30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

  • 鍵括弧の部分を逐語的に整理してみると次のようになります。

    立ち返りと静まりによって あなたがは救われます。
    落ち着きと信頼が、あなたがたの力となります(必ず)。」

  • 立ち返り」とは、神に心を向けることです。180度向きを帰ることです。そして、「静まり」とは、あなたの重荷を神にゆだね、神を中心とした静まりの生活を始めることです。なぜ静まりかと言いますと、多くの活動は「恐れ」から来ることが多いからです。神のことばに耳を傾けるためには、自分がしていることにストップをかけなければなりません。活動や働きを休息させなければなりません。英語で「ホリディ」(Holiday)といえば、休日を意味しますが、「ホリディ」の本当の意味は「ホーリー・ディ」(Holy Day)、つまり、「聖なる日」という意味です。「聖」とは区別することを意味しますので、日曜日に教会に来るのは、普段の日から区別された日として、具体的には神の臨在の中で、神のことばを聞き、神を信頼して生きることを選びとることです。それが聖なる日を過ごすことです。神のことばを聞き、神の愛と神の約束の中に身をおくことを学び続けることの中で、私たちは恐れから解放され、恐れがもたらす力から救われるのです。「立ち返り」と「静まり」はワンセットです。
    画像の説明
  • 次の「落ち着き」とは、平穏さ、何が起こっても驚かない平静さです。ヤコブはエサウが400人もの手下を連れて迎えに来ると聞かされた時、気が動転してしまいした。なぜなら、「恐れ」が彼の心に支配していたからです。「神があなたを必ず守る」という約束をそのまま信じて、落ち着いていれば良いものを、それでは安心できなくていろいろと画策しますが、かえって不安は増すばかりでした。心の平穏さを支えるのは神への「信頼」です。信頼するとは、神と神の約束のことばの中に自分の身を置くことです。
  • 「落ち着き」と神への「信頼」はこれもワンセットなのです。神がどのような方であるかを、聖書を通して知り、神が信頼に足りうる方であり、この方が私を愛し、私とともにいてくださることを、繰り返し、心に刻む事を通してどんな事態になっても、私たちは平静な心をもって生きることができるようになるのです。神が最善をなしてくださることを知るなら動揺することはないのです。これが生きる力です。この力こそが私たちを「恐れ」から解放してくれるのです。そのような力を持って生きることを主は私たちに期待しておられるのです。

2011.10.16


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