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「地引き網」と「御国の学者」のたとえ

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58. 「地引き網」と「御国の学者」のたとえ

【聖書箇所】マタイの福音書13章47~52節

ベレーシート

●今回はマタイの福音書における「天の御国の奥義」の最後(第五回目)です。今回は「地引き網」と「御国の学者」を取り上げます。これらのたとえは、弟子たちに対して語られたものです。

画像の説明

●「御国の福音」とは、メシアによって完全に統治される良きおとずれであり、その祝福を意味します。旧約の預言者たちの多くがそれを預言しています。イェシュアの多くの癒しと奇蹟は、御国が実現するとどういうことになるかをデモンストレーションしています。しかし「御国の奥義」のたとえは、メシア王国が実現される「すでに」と完成の「いまだ」の緊張関係の中にある秘められた神のご計画を教えているのです。その緊張関係には神の敵であるサタンの働きも含まれています。ですから、「種蒔きのたとえ」にしても、「毒麦のたとえ」にしても、サタンの妨害が含まれています。「からし種」と「パン種」のたとえはそのサタンの働きが最大限になされることを示しています。御国の「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中で、神が最も関心を払っている対象は、ご自身の宝の民である「イスラエル」と、高価な真珠である「教会」の存在です。キリストの再臨によって御国が到来する前に大患難が起こる、その前に教会は携挙されますが、そのあとにも、この世の終わりとされる時代には多くのことが起こることが預言されています。

【新改訳2017】マタイの福音書24章14~15節
14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──
読者はよく理解せよ──

●教会が携挙された後、獣と呼ばれる反キリストとユダヤ人が平和の契約を結ぶことによって「患難時代」が始まります。しかしその「患難時代」にも御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされるのです。その結果、異邦人の多くが救われるのです。ところが、マタイ24章15節の「『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら」とは、反キリストとの平和の契約を結んでから三年半後に、反キリストが自ら神と名乗り、その正体を明らかにするということです。ユダヤ人は大患難という未曽有の苦難を通るのです。反キリストを神としなかったユダヤ人は殉教を余儀なくされるのです。「それから終わりが来る」のです。御使いたちは、教会が携挙された後に救われた「正しい者たちの中から悪い者どもをより分け」るのです。そのことを語っているのが、今回の「地引き網のたとえ」なのです。そのテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書13章47~50節
47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け
50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 

●ここには「たとえ」そのものと、その「たとえの説明」が語られています。「地引き網のたとえ」は「この世の終わり」の話だということです。これは以下の「毒麦のたとえ」ととてもよく似ています。

【新改訳2017】マタイの福音書13章37~43節
37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。
41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、
42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです
43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

●「毒麦のたとえ」では、人の子が収穫の時に、すなわち、世の終わりに、御使いたちを遣わします。そして、御使いたちは「すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」とあります。ここで「父の御国」とあるので、「御子の御国」とは異なるという解釈がありますが、父と御子はひとつであるので、同義と考えられます。

1. 「泣いて歯ぎしりする」者たち

●世の終わりの刈り入れのときになって、「泣いて歯ぎしりする」というフレーズは、今回のテキストの50節と全く同じフレーズです。少々異なるのは「取り集めて」(41節「スッレゴー」συλλέγω)と「より分け」(49節「アフォリゾー」ἀφοριζω)の語彙の違いだけです。意味は同義です。「そこで泣いて歯ぎしりする」というフレーズは、13章42節と50節の他に、マタイの福音書の中には以下のように4回(8:12、22:13、24:51、25:30)出てきます。「泣いて歯ぎしりする」とは「後悔することになる」という意味です。

(1) マタイの福音書8章11~12節 
11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
12しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

●11節の「多くの人」とはだれのことを言っているのでしょうか。おそらく、異邦人の百人隊長の信仰が賞賛されたことを契機に語られたことから、ここでの「多くの人」とは「異邦人」のことだと考えられます。天の御国の食卓とはメシア王国での祝宴のことです。しかしそこでは「御国の子ら」であるユダヤ人は、不信仰によって外の暗闇に(サタンの支配の中に)締め出される運命にあることを述べているのです。このことは当時のユダヤ人たちにとってはつまずきとなる衝撃的な言葉でした。なぜなら、当時のユダヤ人は異邦人と食卓を共にすることなど考えられなかったからです。天の御国における食卓に多くの異邦人が招かれ、同席するなどという考えは当時のユダヤ人には全くもって論外だったのです。

(2) マタイの福音書 22章13節 
そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』

●「この男」とは、御国において「婚礼の礼服を着ていない者」のことで、御国の義の衣を着ていなかった者です。

(3) マタイの福音書 24章51 節 
彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです

●「彼」=「しもべ」とは、「主人から全財産を任せられ、しもべたちの管理も任せられたしもべ」のことです。

(4) マタイの福音書 25章30節 
この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。

●このたとえ話は「旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人」の話です、基本的にはイスラエルの民に対して語られたものです。彼らには聖書が与えられていました。その知識を用いて生かすべきだったのです。しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした話です。ここでは役に立たない無用のしもべに対するさばきが述べられています。


2. 「より分ける」

●今回のテキストにあるマタイ13章49節の「地引き網のたとえ」にある「より分ける」は「アホリゾー」(ἀφορίζω)の未来形であり、マタイの福音書25章32節の「より分け」も同じく「アホリゾー」(ἀφορίζω)の未来形が使われています。ですから、同じことが扱われていると言えます。これは、教会が携挙された後のキリスト再臨前に起こる出来事を指しています。教会が携挙された後にも、御国の福音が宣べ伝えられます。それによってユダヤ人も多くの異邦人も救われると考えられます。その者たちの中には殉教することなく、復活のからだを与えられずにそのまま御国に入る者たちがいます。彼らが御国に入るときにチェックされる基準が、「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人」にした行為なのです。マタイの25章の「羊とやぎのたとえ」を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書25章31~41節
31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け
33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。・・・

●この箇所にある「羊とやぎのたとえ」も、人の子が栄光を帯びて、すべての御使いを伴って来るときに、すべての国々の民が御前に集められ、人の子が彼らをより分ける(選り分ける、取り分ける)という話です。

●「最も小さい者たち」とは、この世で困っている貧しい人々のことではなくて、主に立ち返ったイスラエル人たちのことです。異邦人が彼らの一人にしたことは、メシアに対してしたことだと見なされるのです。それが御国に入る基準となっているのです。そのことが、13章では「正しい者たちの中から悪い者どもより分ける」と記されているのです。「~の中から」を原文では「~たちの真ん中から」となっています。御国の福音を信じた正しい者たちの中からより分けられる悪い者たちがいるということです。彼らはより分けられて、火の燃える炉に投げ込まれ、彼らはそこで泣いて歯ぎしりすることになるのです。

●マタイ25章では「最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」として、その者たちは「永遠の刑罰に入り」、逆に、正しい人たち(=最も小さい者たちの一人に良いことをした者たち)には、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい」と言われ、「永遠のいのちに入る」のです。ここの「正しい人たち」とはメシアの右にいる「」のことで、左にいる者たちは「やぎ」なのです。このように、世の終わりには、神の宝の民であるイスラエル人に対して、救われたとする「正しい者たちの中から」、そうではない「悪い者どもをより分けるのですが、「毒麦のたとえ」にある「御国において、つまずきを与える者や不法を行なう者たちを取り集め」ることとは明確に異なります。

●13章の「天の御国の奥義」における「地引き網のたとえ」で、「海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます」とあるのは、マタイ25章の「羊とやぎのたとえ」で言わんとすることと同じではないかと考えられます。

3. 「わかりましたか」 

【新改訳2017】マタイの福音書13章51節
あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。 彼らは「はい」と言った。

●イェシュアの言われたたとえを弟子たちは本当に理解したのでしょうか。イェシュアはこれから起こることが分かって話しておられるのですが、その全体像を弟子たちが知っていたのかというと、心もとない感じがします。「わかる」(悟る、理解する、洞察する、気づく「スニエーミ」συνίημι)という語彙は、マタイの重要なテーマです。13章だけでも、6回(13, 14, 15, 19, 23, 51節)。他にマタイでは3回(15:10、16:12、17:13)使われています。ちなみに、この語彙は「総合的に理解する」という意味です。イェシュアのたとえを総合的に判断して理解することが求められています。

●イェシュアの質問に対して、弟子たちは「はい(「ナイ」ναί)」と返事をしています。主に対する素晴らしい従順ですが、このすぐ後に「あなたがたも、まだわからないのですか」(15:16)と言われています。イェシュアが語っていることから見ると、彼らはイェシュアの語られたことの真の意味は理解していなかったと言えます。しかしイェシュアは彼らの返事を受け止め、「天の御国の弟子となった学者」という新しいたとえを話され、彼らを励まされたのです。それが最後のたとえです。

4. 「天の御国の弟子となった学者」のたとえ

●イェシュアは大きな期待をこめて12弟子たちに対して、「天の御国の弟子となった学者(書記)」と呼んでいます。

【新改訳2017】マタイの福音書 13章52 節
そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

(1)「天の御国の弟子となった学者」

天の御国の弟子となった学者はみな

πᾶς γραμματεὺς μαθητευθεὶς τῇ βασιλείᾳ τῶν οὐρανῶν

画像の説明

●学者と訳されたギリシア語は「グランマテュース」(γραμματες)ですが、これをヘブル語にすると「書記」を意味する「ソーフェール」(סוֹפֵר=סֹפֵר)です。「ソーフェール」は指導者的な存在も意味します。旧約で「学者」と言えば、モーセの律法に精通している者のことを言いました。バビロン捕囚から帰還した祭司であり、律法学者のエズラなどがそうです。

●ところで、詩篇45篇1節に「ソーフェール」(סוֹפֵר)のことが記されています。ここから、なぜイェシュアの弟子たちがみな「学者」=「書記」と呼ばれるのかを考えてみたいと思います。

【新改訳2017】詩篇45篇1節
すばらしいことばで私の心は沸き立っている。王のために私が作った詩を私は歌おう。私の舌は巧みな書記の筆。

●この詩篇45篇は、王である方をほめたたえている「王の詩篇」の一つです。その6~7節に、「あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公平の杖。あなたは義を愛し、悪を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は喜びの油をあなたに注がれた、あなたに並ぶだれにもまして。」と王の威光と権威を讃えています。

●冒頭に「すばらしいことばで私の心は沸き立っている」とあります。「沸き立つ」と訳された「ラーハシュ」( רָחַש) は「あふれ出る、わき出る、燃え立つ、動きが止まらない、沸騰している」という意味です。旧約では詩篇45篇1節のみの動詞にもかかわらず、神を礼拝する者にとってきわめて重要な動詞です。というのも、私たちは心にあるものが必ず口から出てくるからです。この詩篇の作者の心は、神とのかかわりにおいて、すばらしいことばで、あるいは、美しい麗しいことばで燃え立っています。その心からあふれ出たものを、作家がペンを走らすようにして、達筆に書き記したのがこの詩篇です。

●ここで注目したいことは、「すばらしいことば」が原文では「ダーヴァール・トーヴ」(דָּבָר טוֹב)となっていて、「ことば、出来事、事柄」(ダーヴァール)と「良い」(トーヴ)とが結びついています。NKJV訳では a good theme、NIV訳ではa noble themeと訳しています。これは、心にわき立つことばが「一つの良い主題をもって、あるいは、気品ある主題をもって」語られるという意味です。もし作者が、ある思いを、あふれ出る思いやことばを脈絡なく混沌としたまま口から出すならば、だれも理解することができません。他者にも理解でき、他者の徳を高めるためには、知性によってそれらを整理し、ことばを選択することが必要です。そのためには訓練が必要です。即興的に詩を作ったり、曲を演奏したり、作ったりするその背後には、常日頃からの多くの備えがあると言われます。そうした備えがあってはじめて、その場限りの即興的なものであっても、すばらしい統一性をもった独創的な作品を、直観的に、インスピレーションを与えられて造ることができるのです。それが「天の御国の弟子となった学者」にたとえられているのです。

●このことはキリスト者である私たちも学ぶべきところ大です。私たちが神の前に祈る祈りや賛美、あるいは証しや告白、説教などが、ある一つの主題を持って美しく語られるとき、それは自分だけでなく、それを聞く者の徳を高めます。互いに徳を高め合うために、私たちは「キリストのことば」を心のうちに、いつも豊かに宿るようにしていなければなりません。それは日々の「みことばの瞑想」によってもたらされると信じますが、イェシュアが弟子たちに語った「天の御国の弟子となった学者」とは、書記のように何時でもそれを表現する能力を有する者でした。書記がいつもペンを持っているように、弟子たちも常に御国のすばらしさを、その奥義を巧みに語れる者でなければならないのです。イェシュアは、弟子たちがそのような存在となることを、期待をもって語られたのです。

(2) 「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人のよう」

●弟子たちの心の倉にすばらしいものがなければ、取り出すことはできませんが、イェシュアは弟子たちを「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです」(マタイ13:52)と言われました。天の御国の弟子たちはみな御国についての学者(=御国について書き綴ることのできる書記)なのです。

●「新しい物と古い物を」とありますが、「新しい」を意味するヘブル語の「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)は、王なる神の権威と密接な関係があるのです。新約の「新しい契約」「権威ある新しい教え」「悪霊を追い出す新しいことば」「新しい戒め」といった「新しい」ということばは、すべて王的権威をもった⽅、御国の王であるメシア・イェシュアによってもたらされます。「古い」を意味するヘブル語の「ヤーシャーン」(יָשָׁן)は、ヘブル語特有の「メリズモ修辞法」(正反対の語彙を使って全体を表わす表現法、例えば、「ダンからベエルシェバまで」、「善悪の知識の木」など)によって、御国に関する預言をも含んだ神のご計画の全体を余すことなく自由自在に語ることを意味しているのかもしれません。

●「学者」というのは、実に多くの知識の引き出しを持っていて、引き出しから知識を自由に引き出しては結び合わせ、適材適所で用いることができる人です。神のご計画の全貌と深くかかわる「御国の福音」はまさにそのようにして語られるのです。その意味ではイェシュアは御国の最も偉大な学者と言えます。使徒パウロも啓示によって「御国の福音」を人々に語り伝えました。つまり、パウロは神のご計画の全体を余すところなく語ることができたばかりか、それを書記のように文字にしてくれた人でした。そのようにして花嫁なる教会を建て上げ、育てたのです。世の終わりの時代、主の花嫁なる教会は、「天の御国の弟子となった学者」として整えられていく必要があります。そのためには、聖霊の導きによって、花婿なる方への献身を心新たにしていく必要があるのではないでしょうか。

2019.7.21


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