****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「北のほうへ向かって

文字サイズ:

2. 「北のほうへ向かって」

【聖書箇所】2章1~37節

1. 過去の失敗の想起

  • エジプトを脱出したイスラエルの民は、1年以上もホレブ(シナイ山)にとどまった後、「向きを変えて、出発せよ。」と言われ、ホレブを旅立ちました。そしてカデシュ・バルネアまで来たとき、モーセは12人の斥候を遣わして約束の地を探らせました。ところが、現地を偵察してきた斥候たちの不信仰と恐れゆえの報告は、民の心をすっかりくじけさせてしまいました。モーセは出エジプトにおいて主が戦ってくださったことを民たちに思い起こさせようとしましたが、民たちは信じ受け入れようとはしませんでした。
  • 詩篇95篇に、「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。「荒野のマサの日」の出来事は出エジプトして間もない頃、つまり40年間の荒野の生活の初期の出来事です。民は水が「苦い」ことをつぶやき、指導者のモーセに不平不満をぶつけました。これは神の彼らに対する信仰のテストでした。水は生きる上で大切なものであることは神も十分ご存じのはずですが、エジプトから彼らを救われた神がこの水の問題を解決し、生存の保障を与えてくれることを、民が信頼しているかどうか、そのテストでした。しかし民はこの「水」のことで、彼らの心の中にある「苦き根」を露わにしてしまいました。
画像の説明
  • 一方の「メリバでの出来事」とは、40年間の荒野の生活の最後に起こった出来事です。このときも「水」の問題がきっかけでした。このように聖書は両極端(この場合時間的に、つまり初めと終わり)の出来事を取り上げて、その間のすべてのことを表わそうとします。
  • これはヘブル人たちの修辞法における特徴的な表現です。つまり、「マサの時とメリバの時」は40年の間のすべてのことを意味しています。実際には、水だけの問題ではなく、食べ物やリーダーに対する態度においても、神の民は「心をかたくなにした」のでした(たとえば、ミリアムのらい病、コラたちの反逆、等)。それゆえ神は愛想を尽かし、第一世代の者たちが安息の地(約束の地)に入ることをお許しになりませんでした。

2. 失敗を踏み直させる神

  • 第一世代の失敗を再び起こさせないためにも、主は、第二世代にその失敗を踏み直させる備えをしました。それが2章、3章に記されています。シホン王国とバシャンのオグ王国との戦いです。これはやがて約束の地における戦いのための予備戦と言えるものでした。
  • 民数記20章1節によれば、イスラエルの民たちは荒野における放浪の末、第40年の第一月に、再び、カデシュ・バルネアに来ました。そしてそこで主は、「北のほうに向かって行け」(申命2:3)という明確な方向付けをされました。それは、第二世代が約束の地に入って行ってそこを占領させるための周到な準備でした。
  • 神はご自身の導きに私たちが従えるように、私たちの側にも周到な準備をさせてくれると信じます。私たちがそれと気づかなくても、後で考えるならば、絶えざる導きの中で、次の段階の神のみこころを履行させるための備えをさせてくださっているのです。これは神の導きにおける秘儀です。それは、神の「さばき」(統治)における私たちの知り得ぬ領域です。その意味では、「夜」と言われる経験はすべて新しいことのはじまりと言えます。「夜」はとても苦しく、孤独で、変化の少ないところですが、そこを通らなければ整えられない事柄があり、神は恵みによって周到に備えられるのです。この方に私たちは信頼しなければならないことを肝に命じなければなりません。
  • イスラエルの民はエドムを通過し、ゼレデ川を渡り、モアブを通過した後、神は、「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしは・・・シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。・戦いを交えよ。」とエモリ人のシホン王国と戦うべく仕向けられました。しかもその戦いの目的は、エジプト脱出の時にパロの心をかたくなにさせた上で神の奇しいわざをなさったように、シホン王もかたくなにさせて、「きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなた(=イスラエル)のことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」(2:25)というものでした。この戦いにおいて、第二世代の者たちは勝利を味わいました。この経験は彼らにとってカナンでの本戦のためのとなる予備的戦いとして良い経験となりました。
  • 「手に渡された」ということばは「与えた」という意味の「ナータン」(נָתַן)です。すでに「与えられた」ものを、信仰によって取得する経験を、神は第二世代にさせたのでした。かつて第一世代が犯した失敗を第二世代は踏み直しましたが、その後のイスラエルの歴史は、再び、第一世代のように神の道からそれて失敗を繰り返します。その結果がバビロン捕囚という経験です。イスラエルの民はハビロンという異教の地で、再び、申命記のモーセの説教に立ち戻り、三世代をかけて踏み直しをすることになったのです。
  • 失敗は誰でもします。しかし神はそれを赦し、再び「踏み直す」ことを私たちにさせてくださる方なのです。

画像の説明

カデシュ・バルネア

イスラエルの民は荒野をさまよったおよそ40年の内の38年間、ここを宿営の中心地としました(申命2:14)。コラが謀反を起こし民がつぶやき、アロンの杖が芽を出したのもこの地です(民数16~17章)。モーセが岩を打って水が出てきたのも、この付近でした(民数20:7~11)。そしてミリアムはここで死んで葬られていまた(民数20:1)。


3. 詩篇119篇とのかかわり

  • 詩篇119篇はそうした視点から読まなければ、真に理解することはできません。彼らの神を求める求道性は、失敗の踏み直しの営みから生み出されたのです。その踏み直しの土台となったのが、モーセの語ったトーラー、特に申命記だと信じます。詩篇1篇のみことば詩篇も同様です。「踏み直しの経験」を通るまでは、彼らは「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」というライフスタイルを生み出すことは決してなかったのです。
  • 119篇59, 60節
    「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。」
  • 119篇14, 16節
    「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」
  • しかし究極的には、イスラエルの民の失敗、ないしは全人類の失敗の「踏み直し」をしてくださるのは、神の御子、主イエス・キリストです。それゆえ、申命記はイエス・キリストを信じる信仰によってはじめて信仰の自立が確立できることを示唆していると言えます。

a:10743 t:2 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional