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「共にくびきを負う結婚」

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14. 「共にくびきを負う結婚」

聖書箇所 23:1~24:22

はじめに

  • 申命記23章、24章には多くの神の民の規定がしるされていますが、ここでは24章1~4節にある離婚問題について取り上げたいと思います。取り上げた理由は、あるパリサイ人たちがイエスを試そうとして、「夫が妻を離別することは許されるかどうか」(マルコ10章)と質問した問答が新約聖書にあるからです。その問答の中で、イエスは申命記24章を引用しています。申命記24章の「離婚問題」についてイエスご自身がどのように考えられておられたかを知る良い機会です。

1. 新約聖書における離婚問答

  • 新約聖書で「離婚問題」についての問答の箇所は二箇所あります。ひとつはマルコの福音書10章、もうひとつはマタイの福音書19章です。設定の仕方が少々異なっています。
  • マルコ10章では、パリサイ人が「夫が妻を離別することは許されるかどうか」と尋ねたのに対して、イエスは「モーセは、あなたがたに何と命じていますか。」と問います。するとパリサイ人は「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」と答えます。それに対して、イエスは「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」と言い、創世記にある結婚についての神の制定に話を戻して、「神が結び合わされたものを引き離してはなりません。」と答えます。これは、事実上、離婚は認められないと言うことです。
  • マタイ19章の記述を見てみましょう。そこでは、パリサイ人の質問に「何か理由があれば」という条件をつけて、「妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」となっています。「夫が」という主語が抜けていますが、当然それが含まれています。それに対するイエスの応答は、創世記の結婚の制定の箇所を述べて、それを読んだことがないのですか」と逆に問いかけ、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはならない」ことを述べます。それに対してパリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と問います。それに対してイエスは「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することを許したのです。しかし、はじめからそうだったのではありません。」と答えてこうつけ加えます。「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」と。つまり、パリサイ人の「何か理由があれば」という問いに対して、「不貞」以外の理由で離婚状を渡すことはできないというのがイエスの答えです。
  • プロテスタント教会の一般的な考え方は、不貞(姦淫)という事実があれば、離婚は許されるとしています。しかしカトリック教会は、どんな理由であれ、離婚は禁止です。あえて離婚をして再婚すれば、重婚とみなされ、ミサに与ることはできないという見解です。前者のプロテスタントの見解はマタイ的解釈の流れで、後者のカトリック教会の見解はマルコ的解釈の流れに立っていると言えます。
  • マタイ19章によれば、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」という質問は、離婚の正当性を主張しようとしています。「モーセの律法」を守ると一口に言っても、その律法の解釈は、解釈の視点、あるいは立場の違い、時代などによって、微妙に受け取り方が変わってきます。
  • ちなみに、結婚式の「結婚宣言」の中で、司式者が「お二人は神と会衆との前で結婚の約束を致しました。ゆえに、私は、父と子と聖霊との御名によって、お二人が夫婦となったことを宣言いたします。神が結び合わせたものを、人は離してならない。」と宣言しますが、その宣言の後半の部分の「神が結び合わせたものを、人は引き離してはならない」という宣言は、イエスの言葉(マルコ10:9、マタイ19:6)から引用したものです。

2. 「モーセの律法」に対するイエスの解釈

  • ところで気になる所は、モーセの律法(申命記24章)で語られていることが、「あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することを許したのです。」というイエスの解釈です。これはなにを意味しているのでしょうか。
  • モーセの律法では面白いことに、貧しい者たち、やもめや孤児といった不幸な者たちに対する福祉的規定が多く記載されていますが、申命記24章の離婚(離縁)の問題に関してはあくまでも男性優位です。「なんらかの理由」が女性側にあれば、モーセは離縁状を渡して離婚することができることを許容していますが、その「なんらかの理由」が男性側にある場合については規定されていません。離婚には、夫が離縁状を書くことを必要とされていますが、妻の側からは離縁状を書くことは許されていません。つまり、妻の側からは夫の側に「なんらかの理由」があったとしても、離婚の自由はないことになります。現実は夫の側に非があって、妻が耐えられないことだってあるはずです。たとえば、夫が不貞を働いた場合や、暴力を受けたりすることです。
  • イエスは離婚問題について、「妻が不貞以外の理由で、妻を離別し、別の女性を妻にする者は姦淫を犯す」ことになると明言したことです。この明言は当時の弟子たちも驚いたようです。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」(マタイ19:10)と述べていることから、いかに、男性優位の立場と解釈に立っていたかを思わせます。今日のイスラム教における女性の権利は全く認められず、社会的立場は依然として低いようです。かつてモーセの時代もそうした考え方でした。また、カナンの地では男性優位の結婚と離婚がまかり通っていたようです。ですから、本来、神の制定した結婚において、男と女が一つとなるという意味合いからは遠く離れていたと言えます。
  • 「神が結び合わせたもの」とは、「神がくびきを共にさせた」という意味です。結婚はそれほどに強い絆なのです。モーセの時代、結婚が神の意図から逸脱していた現状を、イエスは「あなたがたの心がかたくななので」と表現したのではないかと思います。それゆえモーセは、男性側からのみ離縁状を渡すことを許したのだ、と。しかし本来の神の定めた結婚の制定はそうではなかったのだというのがイエスの見解でした。また、当時としては、絶対に考えられなかった想定、つまり、「妻も、夫と離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯すのです」と釘を刺しています(マルコ10:12)。

むすび

  • 離婚が許されるがどうかという議論の前に、神が制定した結婚ということの真の意味を学ぶことが大切なのです。離婚は、今日増えつつあります。法的な離婚という形を取らなくても、セックスレスの夫婦、別居、家庭内離婚は数多くあると言われています。離婚が子どもたちに及ぼす精神的影響は甚大です。「熟年離婚」、「ばついち」ということばが当たり前のように、むしろ勲章的表現とされている時代です。離婚が是か非かと問う前に、イエスの言われる神の制定された「結婚の神聖さ」にもっと目を向けて行く必要があるのではないかと思います。


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