****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「主の祈り」の瞑想の目的

序   

「主の祈り」の瞑想の目的

  • 「主の祈り」は、今日の多くのキリスト教会の礼拝において、共同体として公に祈られている祈りです。ただし、私の牧会する教会では、あえてこの「主の祈り」を礼拝の中で祈ることをしていません。それは、私自身、長い期間、礼拝の中でこの祈りを繰り返して祈ってきましたが、ただそれだけのことで、この「主の祈り」を正しく理解し、その祈りを自ら生きようと意図して祈る祈りではなかったために、形だけのものとなっていました。この「主の祈り」は、単に、機械的に、一字一句間違わないで祈ることが重要なのではありません。この祈りの真意を理解して、この祈りを生きることが重要です。ですから、「主の祈り」を自分流のことばに言い換えて祈ったとしても、なんら問題はありません。むしろ、そうすることで、より生きた祈りと成り得ます。そのためには、この「主の祈り」について、十分に学び、瞑想することが必要です。
  • 新約の「主の祈り」には、旧約の詩篇とともに、神との正しいかかわりを築くための最高のテキストです。そこには「祈りの精神」のすべてが総括されているからです。ですから、この「主の祈り」は言葉数としては、きわめて少ないのですが、その内容は恐ろしいほどに、尻込みするほどに深淵です。
  • 一人ひとりのキリスト者が、自ら、この「主の祈り」を学び、瞑想することを通して、神とのかかわりをゆるぎないものとしていく必要があると信じます。
  • 「主の祈り」は二つのテキストがあります。マタイの福音書6章9~13節、および、ルカの福音書11章2~4節です。前者はユダヤ人向けに書かれたもの、後者は異邦人向けに書かれたものです。ルカの方はマタイに比べて少し簡略化されているように思いますが、本質的なことは括られていると言えます。
  • 「主の祈り」についての瞑想を通して、上からの気づきが与えられ、神との愛と信頼のかかわりがより深められ、より親しく、より豊かになることを目指したいと思います。一度、じっくりと瞑想をすることによって、この「主の祈り」が日々の生活の中で生きた力となることを期待したいと思います。
  • 「主の祈り」については、多くの研究がなされ、本も多く書かれています。そうしたものも参考にしながら、「主の祈り」についての言葉の真意(思想)を学びながら、なによりもこの祈りを生きることを優先したいものです。


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