****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「あなたは、わたしをだれだと言うか」

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70. 「あなたは、わたしをだれだと言うか」

【聖書箇所】マタイの福音書16章13~17節

ベレーシート

●パリサイ人、サドカイ人たちのパン種、すなわち彼らの教えにくれぐれも注意しなさいと警告されたイェシュアは、弟子たちの信仰を強め、ご自身の本質(変貌)とその使命(受難と死と復活の予告)を教えるために、最北端の地であるピリポ・カイサリアへと赴かれました。なにゆえに、ピリポ・カイサリアの地に行かなければならなかったのでしょうか。イェシュアはだれで、しかも何のために来たのかという最高かつ重要な啓示を示す時期が近づいていました。つまり、イェシュアの公生涯の前半と後半の分水嶺となる出来事が記されています。この箇所はとても重要な箇所なので、ゆっくりと学んでいきたいと思います。聖書箇所は16章13~17節といたします。

【新改訳2017】マタイの福音書16章13~17節
13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。


1. ピリポ・カイサリアという地

ピリポ・カイサリア.GIF

●ピリポ・カイサリアはヨルダン川の水源にあたり、ヘルモン山のふもとにあった町です (右図参照)。紀元前20年、ヘロデ大王は皇帝アウグストからこの町を与えられました。ヘロデ大王死後、第三子のヘロデ・ピリポ(A.D.14~37)がこの地方の領主となります。彼はローマ皇帝のテベリオ・カイザルの後押しによって地位と権力を得たため、その感謝の意を込めてヘルモン山麓にローマ風の街造りをし、その町の名を「ピリポ・カイサリア」としました。ローマ風の街並みはもちろん、ローマの宗教の神殿も建設されて、皇帝礼拝が営まれていたのです。さらに、ユダヤに流布していた銀貨(デナリオン)には「カイザル・アウグストス・神の子・救い主」と刻印されていて、ユダヤ民衆に君臨するカイザルの支配が否応なしに突きつけられていたのです。イェシュアはそのような場所にあえて弟子たちを連れて行き、「わたしをだれだと言うか」と問いかけたのでした。

2. 「人々は人の子をだれだと言っていますか」

●イェシュアは自分のことを「人の子」と呼んでいました。そして、「人々は人の子をだれだと言っているか」と弟子たちに尋ねました。すると弟子たちは思い出すままに、口々に答えました。

(1) バプテスマのヨハネ

●イェシュアのことをバプテスマのヨハネと考えていた代表的な人物は、領主ヘロデ・アグリッパでした。彼はイェシュアのことを「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ」と家来たちの前で語っています(マタイ14:2)。バプテスマのヨハネを殺害したヘロデは、恐れのゆえに、彼がよみがえったとみなしたのです。それをイェシュアのうちに見ていたのでした。ヘロデが家来の前で言ったことから、そのように考える者たちがいたと考えられます。

(2) エリヤ

●エリヤは神のことばのみを武器として北イスラエルの王に対して真っ向から対決する預言者でした。「エリヤ」と表記される名前は「エリッヤーフー」で、「主は神」、あるいは「主こそ神」という意味です。神を表わす「エール」(אֵל)と、主を表わす「ヤーウェ(アドナイ)」(יחוה)が組合わさった固有名詞です。エリヤの「カルメル山上の対決」(Ⅰ列王記18章)は有名です。二度にわたって全精力を注ぎ出す戦いでした。一つは天から火を呼び降す戦い、もうひとつは大雨をもたらす祈りの戦いでした。この戦いでバアルの預言者たちはみな殺されたのです。エリヤはイェシュアと同様に多くの奇蹟をし、死んだ者をも生き返らせました。そしてエリヤは火の戦車と火の馬に巻き上げられて天に帰りました。人々はイェシュアがそのエリヤの再来だと考えていたようです。旧約の最後の預言者であるマラキも「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(4:5)と語っていたからです。ですから、イェシュアをエリヤだと考える人がいても不思議ではなかったのです。しかし、イェシュアは「エリヤはすでに来たのです」と弟子たちに語って、弟子たちもそれがバプテスマのヨハネのことだと理解するようになりました(マタイ17:12)。

(3) エレミヤ

●なぜ、イェシュアのことをエレミヤと考えていたのかといえば、新共同訳のⅡマカバイ記2章1~8節によると、ユダの民のバビロン捕囚の時に、エレミヤは幕屋と契約の箱と香壇を、モーセが神から約束の地を示されたネボ山の洞窟に運び込んだと記されており、ユダヤ人たちはメシア来臨の直前にエレミヤがそれを取り出して、神の栄光を再びイスラエルの上に輝かすと信じていたようです。

(4) 預言者の一人

●ルカの福音書9章8節には、イェシュアのことを「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」という者たちがいたことを記しています。

●以上、(1)~(4)に共通しているのは、当時の人々のイェシュアに対するイメージは「預言者」だったということです。預言者は人を恐れず、神に遣わされて神のことばを語りますが、神ではありません。預言者はどこまでも人です。確かに、イェシュアは神のことばを語った真の預言者だったことには間違いありません。エリヤとその弟子のエリシャと同様に病人を癒やし、死人をよみがえらせ、多くの奇蹟を行ったのです。ですから、イェシュアを預言者の一人と考えたとしても決して間違いではなかったのです。しかし多くの類似点があったとしても、イェシュアはいずれの預言者とも全く異なった存在でした。それを弟子のペテロが正しく答えたという話が今回のメッセージの要点です。おそらくペテロは自分の口で語ったことばの意味をよく理解していなかったと思われます。ところが、その内容が実はとても重要なことだったのです。

3. 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」

●私たちは、世間や他人が自分のことをどう思っているかということに、いつも強い関心を持っています。世間体ということばがあるように、特に日本人はそうです。イェシュアが弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねたということは、イェシュアも一般大衆の評判を気にしていたということでしょうか。いいえ、イェシュアに限ってそのようなことは考えられません。では、なぜ尋ねられたのでしょうか。それは、イェシュアが十字架の道に進む決意をされるにあたって、後に残される弟子たちが、自分のことをどう理解しているかということを知るためでした。そこでイェシュアは、少なくとも2年余り寝食を共にしてきた弟子たちに対して、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられたのです。この問いに対して弟子たちがどう答えるのか、そこがイェシュアにとっての最大の関心事だったのです。ですから、弟子たちのいうことば(告白)に、イェシュアと弟子たちのこれからの関わりの運命がかかっていたのです。

●この問いは、イェシュアの弟子たちだけでなく、今日の私たち一人ひとりにとっても重要なことです。教会で洗礼を受けるときに証しをしてください(書いてください)と求められるのは、イェシュアをだれだと信じるのかということが問われているからです。その信仰告白によって、教会が立ち、あるいは倒れもするからです。キリスト教の歴史において、これまでにも「イェシュアとはだれか」という論争が絶えずあったのは事実です。例えば、

(1) 過去の歴史上の人物であるという見方です。キリストを過去の歴史上の一人物として見なしているけれども、それ以上の意味を認めないという立場です。

(2) 逆の立場として、イェシュアという人物は歴史上の人物ではなくて、教会が創作した人物に過ぎないとする立場です。なぜなら、イェシュア自身が書いた文書も、また、彼が行った働きの映像もなにひとつ残っていないからです。復活も、このような立場の人からすると、死んだ者が生き返るなどというのは非科学的なことであり、それは教会が創り上げた話としてしか理解されません。マスコミに出回る文書はこのような立場を持っている人が書いているために、その影響はきわめて大きいのです。

(3) 人間の精神的文化に対してきわめて重大な影響を与えた人間の理想像という見方です。彼の残した隣人愛、人間の尊厳さ、社会正義など、身をもってそれらを実践した人。当時の人々だけでなく、いつの時代においても、人々の道徳的・倫理的生活の基をもたらした人。偉大なる宗教的な天才、人類の模範的な理想像、社会正義の実践家として敬愛され、その価値を評価されている人として信じられています。

●このような見方は、女の子が自分の人形に自分の好みの服を着せ替えて遊ぶようなものです。イェシュアという人物に、その時代時代の思想や世界観といった着物を思い思いに着せて理想化します。そのような理想像に多くの人々が感銘し、心をひきつけられてしまうのです。しかしそこには、イェシュアが「神の子キリスト」であるという信仰はありません。人間としての理想像として受け入れられているだけです。もしイェシュアがそのような人類の理想像であるとしたら、これから述べられる「教会」というものは成り立っていくことはできず、彼を信じる者たちの信仰も空しくなり、教会は立ち行くことができなくなってしまうのです。それゆえ、イェシュアが弟子たちに尋ねた「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という問いは、彼らだけでなく、現代の私たち一人ひとりにとっても大きな問いかけなのです。

4. 「あなたこそ生ける神の御子キリストです」

●弟子たちの筆頭であるぺテロの口から出た答えは、「あなたこそ生ける神の御子キリストです」でした。イェシュアは弟子たちすべてに聞いたにもかかわらず、ペテロだけが答えました。他の弟子たちが同じ答えであったのかはわかりませんが、ペテロの答えはあまりにもすばらしい答えだったのです。その答えを聞いたときのイェシュアのことば、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」がそのことを裏付けています。

●ペテロの答えはとても重大な告白なのです。「私はそのような立派な告白をして洗礼を受けなかったわ」と心配しないでください。この信仰告白を聞いて気落ちしないでください。まず、ペテロが自分で言っていることがよく分かっていないことが分かります。人が生まれて最初から自分の親がこういう方であると分かる赤ちゃんがいるでしょうか。いるわけがありません。親とふれ合う中で成長して行って、大人になってはじめて親がどういう人なのかが分かってくるものです。「あなたこそ生ける神の御子キリストです」という信仰の告白は霊的に成熟した者の告白なのです。真の教会はそうした告白を土台として立っているのです。神の子とされた者たちを、神が願っておられるレベルまで成長させてくださるのです。そこで、まず安心して、「あなたこそ生ける神の御子キリストです」という告白が意味することを考えてみたいと思います。霊の世界では、正解を丸暗記しても意味がありません。

●「あなたこそ生ける神の御子キリストです」は、ギリシア語原文では、

画像の説明

となっており、ことばの順序が日本語訳と逆です。原文をそのまま日本語にすると「あなたは ~です キリスト 御子 神の 生ける」となっています。しかも「キリスト」「御子」「神の」「生ける」のそれぞれに冠詞が付いています。

①「キリスト」(「ホ・クリストス」ὁ Χριστος) ※新共同訳は「メシア」と訳しています。
②「御子」(「ホ・ヒュイオス」ὁ υἱὸς)
③「神の」(「トゥー・セウー」τοῦ θεοῦ)
④「生ける」(「トゥー・ソーントス」τοῦ ζῶντος)

●一つ一つのことばに冠詞がつけられているということは、その一つ一つのことばに限定された深く重い意味があることを示しています。

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(1)「キリスト」(「ホ・クリストス」)

●並行記事を見ると、マルコの福音書8章27~30節では「あなたは、キリストです」とあり、ルカの福音書9章18~20節では「神のキリストです」とあります。いずれも「キリスト」(メシア)という言葉が共通しています。「キリスト」ということばだけでも、それだけでいくつかのメッセージができるほどです。これを単に「救い主」としてしまうと、メシアの本質は伝わりません。日本で伝道する上で、便宜上「救い主」が使われているだけで、「キリスト」の真の意味はそれでは分かりません。初代教会の信仰告白は「イェシュアは救い主」という信仰ではなく、「イェシュアはキリスト」であるという信仰に立っていたのです。なぜなら、「キリスト」と訳された「メシア」は、旧約聖書で預言されてきたメシア預言の全体を意味しているからです。「救い主」だけでは、死後に天国に行けるようになるために、私の罪を赦してもらうことだけに他なりません。「罪のあるままでは天国に行けないが、イェシュアの十字架によって罪を処理してもらえば、私たちも天国に行けるようになる」という次元でしか「福音」を捉えていないのです。それでは神のご計画におけるメシアが果たすべき本質の一部分だけしか言い表せていません。初代教会における「福音」とは、「イェシュアがキリストである」という理解なのです。

●今日のキリスト教は初代教会の「福音」に立っているとは必ずしも言えません。なぜなら、「福音」=「救い」という図式で考えているからです。この図式では旧約聖書における歴史が必ずしも必要ではなくなります。しかし、「福音」=「イェシュアがメシア」の図式では旧約の歴史や預言が不可欠となるのです。つまり、その神のご計画の中に人間の救いの必然性が組み込まれることになります。福音を理解する概念が異なるのです。教会の伝えるべき福音とは何なのか、それを神のご計画という概念から理解する必要があります。そうでないと、救いも福音も自己中心的なものへと傾斜し、やがて教会の霊的な力が衰退することは免れません。ですから、イェシュアの「あなたは、わたしのことをだれだと言うのか」という問いは、教会にとって、また教会につながる者にとって、きわめて本質的な問いなのです。

●聖書で預言されているメシアとは、イェシュアが神に油注がれた特別な預言者であり、大祭司であり、であるということです。このイェシュア・メシアこそが、神と人とが永遠に住む家、すなわち、天の御国を実現する方なのです。イェシュアを単なる救い主とだけ理解しても決して間違いではありませんが、イェシュアが救い主であることを知るのは、神の民としての最初の地点に立っただけにすぎません。神の壮大なご計画を知りつつ、その祝福がいかに新しい創造的なことであるのか、またその計画の中で私たちがどのような特権と祝福を与えられるのかを知らされる鍵が、イェシュアがキリスト(メシア)であるという信仰の告白なのです。この信仰告白に立つことで、メシアの「教会」はゆるぎない確固としたものとなっていくのです。

「牧師の書斎」のHPの中に「初代教会信仰告白」というタグがありますので、読んでみてください。そこには、22頁からなる以下の四つの文書―序.「イェシュアはキリスト(メシア)です」 1. 「イェシュアは預言者です」 2. 「イェシュアは大祭司です」3. 「イェシュアは王です」)―が掲載されています。

(2)「神の御子」(「ホ・ヒュイオス・トゥー・セウー」

●「御子」とは単なる「子」という意味ではありません。「その子」、つまり「御子」のことです。「御子」は「御父」という存在と関係しているのです。子のいない父は父とは言いません、父と呼ぶからには子という存在がいるのです。イェシュアは言われました。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)。このことばを決して忘れてはなりません。ものみの塔(エホバの証人)の人たちはイェシュアが神の被造物だと信じているため、このみことばの秘儀を信じようとはしません。「わたしと父とは一つです」ということは、御父も御子も等しく神であるということです。異なる位格(ペルソナ)を有しながらも一つの神、「エハード」(אֶחָד)のかかわりを持つ神だということです。神のご計画の究極の目的は、御父と御子とが愛において「一つ」であるように、天にあるものも地にあるものも、地の下にあるものも、すべてがキリストにあって「一つ」に集められ、永遠にゆるぐことのない信頼で結ばれている一つの「家」が完成することなのです(エペソ1:11)。ですから、私たちが「御子」ということばを使うときは、そこに常に御父が共にあるということを告白するものでなければならないのです。

(3)「生ける」(「トゥー・ゾーントス」)

●聖書に「主は生きておられる」(「ハイ・アドナイ」חַי־יהוה)というフレーズがあります。これは預言者エリヤの特愛表現です。最初のイスラエルの王とされたサウル王もこの表現を使っていますが、それは口癖のようでした。しかしエリヤの場合は偶像に対する真の神として告白されました。形容詞の「ハイ」(חַי)は、「生きる、生き返る、回復する、元気づく」を意味する動詞の「ハーヤー」(חָיָה)を語源とする語彙です。死んだ神ではなく、いのちの源である神に用いられる語彙です。すべてのものにいのちを与え、すべてのものを生かすことのできるいのちの本源である神です。初穂としてイェシュアを死からよみがえらせた創造の神こそが唯一の「生ける神」なのです。その神は私たちを復活させ、新しい霊のからだを与えて御国に生かしてくださる創造の神なのです。 

●「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(Ⅰ列王17:1)の「私の仕えている」の直訳は、「私がその御前に立つところの」という意味で、エリヤの力の秘密は常に主の前に立つところにありました。神の臨在を信じてその中に生きる人でした。また、「主は生きておられる」という表現は「ハイ・アドナイ」で、「生きる」という形容詞と「主」(アドナイ)が結びついたものです。この告白はバアルの神を礼拝することを許容したアハブに対するものであり、偶像礼拝の戦いにおいて決定的な告白でした。エリヤはアハブ王の前に立っても少しも恐れませんでした。なぜなら、エリヤは王の前に立っている以上に、主の御前に立っていたからです。

ベアハリート

●「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」との問いかけに対して、ペテロは「あなたこそ生ける神の御子キリストです」と答えました。その告白は大正解の答えでしたが、これはペテロが自分でよく考えて出した答えではなく、「このことをあなたに明らかにしたのは、天におられるわたしの父です」とイェシュアは言って、その告白が啓示によるものであることを語られました。これは「血肉」、つまり人間的な考えによっては決して言えない告白なのです。それゆえに「幸い」なのです。この告白は天の秘密です。この告白に私たちが明確に導かれたいと願うならば、知恵と啓示の御霊が与えられるように神に祈らなければなりません。

●イェシュアに対する私たちの信仰の告白が、御霊の啓示によって、また神のご計画をより深く学びながら、神のみこころにかなった者へと成長していけるように祈りましょう。

2020.2.2
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